こけしの風土


こけしの風土とは何か

こけしの風土というものに正面から取り組んで解説したのは、西田峯吉氏の「こけし風土記」が最初であろう。この本は昭和十八年二月に「民族玩具叢書」第五巻として東京・新龍社より発行された。
因みにこの叢書の第一巻は有坂与太郎の「民族玩具と伝統精神」、第二巻は伊藤蝠堂の「民族玩具とその習俗」 、第三巻は梅田之の「生活文化と民族玩具」 、第四巻は金井虹二の「民玩採集」 、第六巻は梅林新市の「福岡の民族玩具」といった具合にこけしの蒐集家としても知られている人たちが執筆陣に加わっている。
西田さんの「こけし風土記」は、戦後昭和三十六年に未来社より再刊されているので手に入りやすい本となった。
この本では、「こけしの風土」を最初の章に置いて、こけしの素性、こけしのふるさと、こけしの起源、こけしの方言と語源、こけしと生活について順次記述している。
それは、湯治の人々によって温泉地で土産物として求められ、近所の子供たちにも配られ、縁起物として民俗信仰の精神的な世界とも結びついていたこけしの姿である。
西田さんの意図としては、こけしが蒐集家の手に渡る以前の、こけしがこけしとして東北の人たちにどう受け止められ、どう扱われていたかを説明しながら、それをこけしの風土という言葉で括ろうというというものだったろう。
西田さんは彼の言う風土からこけしが遊離していくのをいつも憂慮し続けていて、亡くなる一月前の仙台の講演においても「こけしはいつまでも風土と結びついたものであってほしい」と語っていた。
一方で、昭和二十九年四月に、鹿間時夫氏は築地書館から「こけし・人・風土」という本を出版した。このなかには「こけしの郷土」という一節があるが、これは鹿間さんがこけしに魅かれ始める契機と、そのきっかけを作った友人との産地旅行を通して、訪問者の目で産地を眺めた記述が主である。こけし風土論といったものはこの本の中にはない。タイトルの風土は、むしろこの本の中で次々に紹介される工人の姿や、その生き様を通して感得されるべきものという思いではなかったかと感じる。

こけしの郷のむかし

ところですでに紹介したが、岡戸正憲さんが最近「こけしの郷のむかし」(平成二十三年)という写真集を出版した。
この本にはこけしの産地、あるいはこけしが売られていた温泉地の明治末期から大正期の絵葉書が数多く収録されている。これはまさに西田さんが風土と呼んだもの、蒐集家出現以前にこけしが本来のこけしとして取り扱われていた産地の姿を目で見ることができるということだ。
この多くの絵葉書を繰り返し眺めていると、私はふと奇妙な感覚を覚えた。それは我々が近代人の目で、明治期・大正期の日本の姿を見る感慨は、あるいは幕末から明治初期に西洋から既に近代化していた外国人が来て、日本の人々と接して感じた感慨と共通するのではないかという思いによるものだ。

逝きし世の面影

幕末から明治にかけては多くの外国人が日本を訪れて、その見聞を著書に残している。
翻訳されたものも数多くあるが主なものは:
こうした日本の見聞記を注意深く読みながら、実は明治から大正にかけて「滅亡した一つの文明」としての近世日本像を彫りだしたのは、渡辺京二の「逝きし世の面影」(葦書房・平凡社ライブラリー)である。
渡辺は言う、明治以後の近代化によって「近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いている」と我々は未だ信じているのではなかろうか。しかし、「実は、一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。」
外国から来た人たちが描く幕末の日本の姿というのはどのようなものか、それぞれによって表現の仕方は異なるが、共通しているのは「西欧の諸国が国民国家の成立と産業化によって追求した近代化とは全く違った形で、驚くほど完成された安定な社会を成立させていた」ということだ。
彼らが観察した日本人は「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さが現れている」「日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける」「西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全くみられない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている」と言った具合で、人生を楽しむことに夢中で、いたって陽気な気質は、都会でも地方の山村農村でも同じだった。
階級の差はあるが、その階級に応じて幸せに暮らしている、「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない」「日本には食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができる」、上司は下司に対して「つねに慇懃で穏やかな態度で話しかける」「主人と召使の間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってはまず未知の関係と言ってよい」、つまりは階級闘争と云ったものは希薄で、親和感に貫かれた文明であった。
その他、他者に対しては極めて警戒心が薄く、訪問者に対するホスピタリティは徹底している。全ての階級にわたって礼儀正しく、時間をかけた挨拶をする。男も女も子供を大事にして、子供と遊んだり、子供を話題にすることを好む。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。
清潔好きで、道でさえ土足で歩くのをためらうほど掃き清められている。「田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、室内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである」。
贅沢に対する欲求が少なく、身分の上下を問わず簡素な生活をしている。「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである」。
こうした日本は渡来した外国人にとっては驚きであり、従来から知っていた東南アジアやシナの文明とは全く違ったものと映った。日本は彼らにとって、「素朴で絵のように美しい国」「妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議な国」「地上のパラダイス、あるいはロータスランド(極楽)に最も近づいている国」だったのである。
こうした日本に対する観察は、開国以前から通交のあったオランダの人々も同様であり、ケンペルやツュンベリーの日本誌や紀行は欧米では広く読まれた。1775年に来日して日本の本草学に大きな影響を与えた植物学者ツュンベリーも「江戸参府随行記」(東洋文庫)で、日本人の国民性は「賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして誠実」と書き、江戸への旅について「その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持の良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。」と言っている。
一部の日本人評論家の中には、こうしたオランダの先人達が西欧に伝えた日本人観が先入観となって、開国後来日した外国人のステレロタイプ化した日本のイメージが出来あがったのだ、あるいは時の幕府や政府が都合の悪い部分を隠した結果として偏った日本像が出来あがったのだという人もいるが、渡辺京二は個々について丁寧に分析して、当時の日本は外国人が観察し、報告したとおりに、今日の日本とは違った一つの文明を確実にもっていたことを明らかにしている。
渡辺京二は最後に、「幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。」と要約している。
モースはアメリカの動物学者で、東京帝国大学の教師となり、大森貝塚の発見で知られる。帰国後、彼は専門の腕足類の研究に没頭しようとしていたが、日本美術の蒐集家であった友人のピゲロウは「腕足類の研究など溝へでも捨ててしまえ。君と僕とが四十年前親しく知っていた日本という有機体は、消滅しかかっているタイプで、その多くはすでに完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを忘れないでくれ。」と言った。これがモースが「日本その日その日」をまとめて出版する契機になったが、彼らは自分たちが滅びゆく文明の目撃者だったことを自覚していた。

潜伏した文明

それでは幕末から明治までは残っていた近世の日本の文明は何時滅びてしまったか、殆どは明治中期、日本が富国強兵を目指して産業化に邁進した時期に、西洋の近代文明に同化して行く過程で滅んだと見るべきであろう。
明治期に活動を始めた集古会のメンバーには、江戸趣味の人達が多く、消えていく江戸情緒を保存したいというのが蒐集の一つの契機であったというから、彼らもまたこの文明の消滅の意識的な目撃者であったはずだ。
天敵のいない世界の生物のように、全く警戒感を欠いた陽気な人たちを、列強による侵略から守るためには近代化は不可欠であったろうし、そのために献身した明治のリーダー達の功績も大きかった。しかし一方で、滅び行く一つの文明に哀惜の念を感じる人たちもいたのである。
近代化への変化が不可欠だったとしても、必ずしも日本全体が一時期に変わったわけではない。都市では割合早く、そして地方では徐々に、東北には割合遅くまで残っていたのではないだろうか。
岡戸正憲さんの「こけし郷のむかし」に掲載された絵葉書を見ていると、これらは開国後の外国人が見た日本の姿そのものであって、それがまだ残っていたのではないかという気がしてくる。
絵葉書の撮影があるとなると、一斉に温泉宿の縁側や、二階の手すりの前に集まってくる湯治客の姿などをこうした絵葉書に見ると、バードが宿に入った途端に、隣の家の屋根や塀に、人が群れ集まって覗き込んだという物見高さや珍しいもの好きが彷彿とする。
とすれば、こけしを生みだし続けた風土というのは、消滅する前の近世日本の文明の下にあった世界ではないのか。こけしが文化文政から天保にかけて発生したとすればそれは当然その文明に属していた筈であり、東北には明治末から大正期までそれが残っていたのではないかという気がする。
居心地のいい社会を維持するために、必要な礼儀やいたわり思いやりを大切にし、いかなる階級においてもそれなりの自足を得る十分な楽しみをもった成熟した社会の気風が残っていたであろう。そういう社会の農民たちが、湯治場で限られた農閑期の娯楽を精一杯満喫し、体力を回復して帰る時に、自分の村の近所に配るお土産としてこけしを買っていったのである。それは自分の楽しみの充足感や体力回復の確信を村の人々と共有する仕組みでもあった。
工人たちにもまた、必要なだけ稼ぎ、あとは人生を楽しむといった気風が残っていた。
多くのこけし産地での古い聞き書きには、それを感じる部分がいくつもある。例えば、幕末の遠刈田では三日に一度ロクロに上がればそれで十分食べて行けたので、あとは皆で濁酒を飲んだり遊んで暮らしたという。社会は安定していて、蓄財に励むよりはその分この世の生を楽しむ方が大切だったのである。この辺りの気分は、佐藤友晴著の「蔵王東麓の木地業とこけし」に詳しい。
「こけしの風土」とはこのような人々によって構成された世界であった。
木地師が労働に束縛されるようになるのは、青根に丹野、小原の木工場、肘折に尾形政治の工場が出来たり、遠刈田の吉田o治の工場や小室・北岡の工場による仕送り制度が始まって、その職人として厳しい条件で働くようになってからである。それでも佐藤周助などはその束縛を嫌って明治三十五年に尾形の工場を去り、気が向けば挽き、好きな山菜取りや魚釣りを楽しむ生活を選んだ。周助に替わって尾形を切り盛りした佐藤文六とは軋轢があったわけではなく、生産性を重視する近代化された工場で献身する生き方を受容したかしなかったかの違いであり、この二人は生涯親しい交友を続けたようだ。
生き方には少しづつの違いがあったとは言え、多くの工人、工人の家族、そしてその振る舞いや感受性は、外国人が幕末から明治初期にあらゆる場所で観察したその文明のものと非常に近い。そう、言い換えればそれは産地の人々の、訪問者に対する限りない「親和力」であり、そこから感じ取ることのできる「幸福感」だったろう。自分が楽しむためには、相手にも楽しんでもらわなければならない。来訪者へのその親身なHospitalityには誰でもが感激させられたに違いない。そうした彼らの人間的魅力が、蒐集家の産地訪問の大きな動機にもなっていた。産地への訪問記は、こうした魅力ある工人たちの発見記でもあった。
トニーとイツカ(スターン夫妻)は、日本駐在時にこけしに興味を持って、今では立派な蒐集家になっている。ロスアンジェルスの美術館でこけし展も開いた。現在はテキサスに居るが、毎年鳴子のこけし祭りには日本にやってくる。何が日本に来る大きなMotivationかを尋ねたら「工人の方が素晴らしいから、会うのが何時も楽しみだ」という答えだった。
あるいは幕末明治初期に外国人を魅了した日本人の心性の多くが、今でもある程度残されているのかもしれない。
それは潜伏しているかもしれないが、東日本大震災のような場面になると確実に顕在化する心性でもあるのだろう。

参考: 宮本常一も消えていく日本人の姿に強い関心を抱いていたようだ。「忘れられた日本人」(岩波文庫)はそうした日本人の姿の記録だが、なかには一編の小説と言ってもよいくらいの優れた構成の記述もある。また、「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」 (平凡社ライブラリー)では、バードの短い観察の断片から、その背景を掘り起こしていって考察は限りなく広がってゆく。若いころからモースの「日本その日その日」の愛読者でもあり、繰り返し目を通していたことが、その著作の中からもうかがえる。




産地風影

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