集古会誌の発刊のころ
集古会は明治二十九年一月上野韻松亭の集まりからスタートし、以来昭和十九年まで続いた趣味人同好の会である。会の目的は古器物を持ち寄り、彼我打ち解け、話し合うと言うことであった。
その会誌である「集古会誌」第一輯は、明治二十九年十一月二十日に発行されている。編集兼発行人・林若吉、印刷者・松永秋斎、印刷所・葆光社であった。
この第一輯によると、当初の會名は集古懇話會で、佐藤傳蔵、大野延太郎、八木奘三郎、林若吉、田中正太郎の五人を発起者として、その第一會を明治二十九年一月五日に東京上野公園大仏前韻松亭で開催している。
因みにこの発起者の五人はいずれも東大人類学教室に関連のある人物で、この集古談話会が人類学教室の坪井正五郎が音頭を取って始めたというその様子を彷彿とさせる。大野・八木・林はいづれも坪井の研究室で働いていた人達だし、佐藤傳蔵は地質学者として発掘品の地層の年代確定を手伝っていた。田中正太郎は東京人類學會会員として発掘成果を精力的に東京人類學會雑誌に発表していたので坪井とは緊密な関係であったろう。
第一會の参会者は二十一名、すなわち林若吉、大菊七郎兵衛、大野延太郎、亀田一恕、田中安国、田中正太郎、坪井正五郎、中川近禮、野中完一、黒川眞道、桑野禮治、八木奘三郎、山中笑、阿部正功、佐藤傳蔵、三宅米吉、水谷乙次郎、宮下鉦吉、下村三四吉、毛利利教、關和喜吉であった。八木奘三郎が発起人総代としてこの會の趣旨を述べ、坪井正五郎が祝辞を述べたとある。
第二會は同年三月八日で、この時から會名を集古会と改め、上野公園内の三宜亭で開催。第三會は四月二十六日に神田仲町富岡方で開催、以後第四會七月四日上野公園見晴亭、第五會九月二十六日神田仲町青柳亭と続き、この第五會までの会計報告を含めた記録が「集古会記事」として第一輯に載っている。
第一會、第二會の出品は、ほとんどが土器や石器といった考古資料が大部分であったが、第三會から清水晴風が参加するようになり、この時に晴風は小児玩具(雛形)数十種を出品している。晴風は第四會、第五會にも玩弄人形数十種を出品し、集古会で対象となる古器物の幅が漸次広がって行ったことが分かる。
集古会は東京帝国大学の坪井教授が旗を振り、研究室の若手だった八木や林が実務を担当して始まったから、「当初は人類学・考古学が中心であったが、『市井の好事家も加えた方が面白いだろう』という坪井の発案で晴風に声をかけたところ、その仲間がこぞって集古会に加わり、考古学を中心とした石器や土器の学問的な蒐集から、ぐっと趣味的なものへ対象が広がっていった。」と言われている。第一輯の「集古会記事」を辿ると、確かに第三會以降清水晴風の玩具が加わり、第六回からは中澤澄男の人形や盛岡のおしゃぶり、亀田一恕の古銭、水谷乙次郎の納札と急に対象範囲の拡大が見られる。因みに中澤澄男出品の盛岡のおしゃぶりはキナキナであろう。
第弐輯は明治三十一年四月二十日発行で、第六回から第十三回までの記録が「集古会記事」として載る。この弐輯から開催ナンバー表記が「會」から「回」に変わる。この弐輯の巻末に初めて会員名簿が載るがその時の会員数は三十五名。
第参輯は明治三十二年六月十六日発行、第十四回から第二十回までの記録が「集古会記事」として載る。その巻末の会員名簿では会員数は五十四名になっている。その結果、持ち寄り品の多様化は一層進み、考古の土器・石器は必ずしも主流の持ち寄り品ではなくなっていく。彫刻家竹内久一もこの時点から、会員名簿に載る。
それが明治三十六年三月発行の集古会誌の会員名簿(二月末現在)では総数百七十五名まで増えているので、古器物持ち寄りの集古会は多くの人たちの支持を得た活動であったことが分かる。
集古会の会誌は「集古会誌」として第三輯まで発行された後、第四輯から第十輯までが「集古会記事」と誌名を変更、明治三十六年三月から再び「集古会誌」に戻った。
大正九年二月からは「集古」という会誌名に変わり、昭和十九年七月十日発行の通巻百八十九号まで続いた。
集古になると装丁なども随分簡略化されてくるが、南方熊楠などはこのころから盛んに投稿するようになる。
大正十三年八月二十五日発行の甲子第五號
創立期の会員
最初の会員名簿は第弐輯の巻末に載った明治三十一年のもので総数三十五名。
イロハ順で、次のとおりである。
石谷清明、濱田平兵衛、林若吉、堀田璋左右、堀口與之助、沼田頼輔、岡部精一、岡田村雄、大野雲外(延太郎)、亀田一恕、吉野泰之助、横井仲定、竹井澹如、田中安国、染谷大太郎、坪井正五郎、根岸武香(伴七)、中澤澄男、中川近禮、村松文太郎、野中完一、熊ヶ谷弥重、桑野禮治、黒川眞道、八木奘三郎、山中笑、蒔田鑓次郎、幸田成友、佐藤傳蔵、喜田貞吉、島村孝三郎、下村三四吉、清水晴風、諸井興文、關保之助
太字表記の会員は、明治三十六年時点でもなお会員であったもの。これら明治三十六年の会員については「集古会の人々」で詳しく見ることにして、ここでは三十六年までに会から去った人達のなかで主なものについてに簡単に触れておくことにしよう。
堀田璋左右:東京帝国大学史学科を卒業した歴史学者。後に横浜市史編纂主任を務めた。吾妻鏡標註など国史に関する著作が多い。因みに極初期のこけし蒐集家としても知られる加山道之助は堀田の後任として横浜市史編纂主任をつとめている。
沼田頼輔:日本の紋章学者、歴史学者、文学博士。開成中学校教諭となり、そのかたわら文科大学史学科編纂係を務め、後年には考古学界の副会長になった。「日本紋章学」を執筆刊行、それにより帝国学士院恩賜賞を受賞した。
岡部精一:帝国大学を卒業後、陸軍編修官となり、日清戦争史の編纂に従事した。日本歴史地理学会の創設に参画して、明治末期から大正にかけて、史学の普及に功績があった。
吉野泰之助:自由民権運動家吉野泰三の三男。若いころは父泰三同様に政治活動家であったが、父の死に際の遺言で政治家になることを禁じたため、旧跡の探訪や書画・骨董・刀銭・庭木の収集など、趣味に生きる生涯を送った。父と同様に書を能くし「凌雲」の雅号を持っていた。家伝の薬「保寿丸」は、関東地方を中心に鹿児島・北海道まで販路を広げていた。
竹井澹如:埼玉県会議員、初代議長。本姓は市川。通称は万平。俳号は幽谷。荒川の出水をふせぐため私費を投じて突堤(万平出し)を築いた埼玉の篤志家。
田中安国:歴史家。史談会速記録の執筆者の一人。史談会は、島津・毛利・山内・徳川・岩倉・三条の各家が中心となって行った活動で、幕末から維新にかけての激動期を実際に体験した古老の実歴談や旧藩資料を研究した史談を採集記録した。
染谷大太郎:千葉県葛飾郡手賀村鷲野谷出身の考古学者。自分の耕地にあった古墳から父の代に円筒埴輪三十基が出土したことが考古学に興味を持つ機縁となった。坪井正五郎と交友あり。
中川近禮:古銭の研究家。「集古会」発足の明治二十九年に和銅古跡を探訪した「武蔵国秩父郡黒谷村鋳銭遺跡」という論文を「考古学雑誌」に発表している。亀田一恕らと共編で『新撰寛永泉譜』を出版した。
野中完一:人類学者、考古学者。坪井正五郎の門下。明治三十年代に先史遺跡知名表の作成や古墳の発掘調査、高良山神籠石の研究で知られる。東京人類学会入会、考古学会会員。
桑野禮治:新潟藩士桑野禮行の二男。妹タカは明治の文芸評論家高瀬文淵に嫁いでいる。独逸語学協会学校で独逸語を学んだ後、明治二十七年第一高等学校に入学したが、すぐに退学して理科大学の人類学講習会に入り、坪井正五郎について三年間人類学、土俗学を学んだ。帝国大学雇員として図書館勤務の後、熊本五高の独逸語の教授。大正元年に海水浴中に水死した。訳書にレーデラーの「習慣教育法」がある。
八木奘三郎:帝国大学人類学教室の標本取扱から始まり、坪井正五郎の指導を受けて研究をすすめ人類学者として知られるようになる。朝鮮半島の考古学的調査を行い、のち朝鮮李王職博物館,旅順博物館などにつとめた。著作として「考古便覧」、「支那住宅史」、中澤澄男との共著「日本考古学」などがある。
幸田成友:幸田露伴の弟。文学博士。「大阪市史」の編纂長をつとめ、大阪を「天下の台所」と位置付けた。東京商科大学教授をへて慶大教授。江戸時代の経済史や都市文化史、日本キリスト教史などの実証的な研究を行った。
喜田貞吉:歴史学者・文学博士。文部省で国定教科書の編纂にも従事。京都帝国大学・東北帝国大学の講師などを歴任した。後に証明された「法隆寺再建」を論じた事で知られる。
島村孝三郎:濱田耕作・原田淑人その他とともに東亜考古学創立者の一人。大連図書館初代館長。戦後の静岡市登呂遺跡調査会のメンバーにもなった。
諸井興文:これは諸井興久の誤植であろう。第参輯の名簿には興久で載る。埼玉県本庄にあった児玉・賀美・那珂郡役所の郡長。秩父事件の対応にあたった。諸井家は児玉郡本庄の旧家。
このように初期の会員は大部分が坪井正五郎の人類学教室に関係のある人であった。おそらくは土器や石器などの考古学的な古器物の持ち寄りと、それに関わる歓談が主だったであろう。それが清水晴風などの参加によって人形玩具、古銭、古書、歴史資料と広がって行って、考古の古器物は主流ではなくなっていく。明治三十六年ごろになると、一途に考古学の発掘品調査や歴史学に献身したい人たちにとっては会の方向がずれてきたように感じられたのであろう。そうした人たちは明治三十六年の名簿からは消えてゆく。
尤も、八木奘三郎や、幸田成友のように明治三十六年の会員名簿からは消えているが、明治三十九年版では再び会員として戻って来る者もあるので、短期的な出入りはあったであろう。
一方で対象のScope を大きくした集古会は、多くの趣味人や好事家たちを取り込み吸収しながら、多層的なネットワークを構成して昭和十九年まで続くのである。