岡崎長次郎の型を作る梅木直美さんがFacebookに、長次郎のこけしの肩の飾り模様を「『よだれかけ』って言います。」と書いていた。
蒐集家は勝手に色々な名称を付けるので長次郎の「よだれかけ」も俗称と思っていたが、作る側の人たちも「よだれかけ」と呼ぶのは不思議で気になった。
実は、こけし辞典の岡崎長次郎の項目は私が執筆していて、その中でこの様式に触れ「首の周辺によだれかけ状の模様を描く場合もある」と書いている。
辞典の場合は出典が大事で、この「よだれかけ」は私が勝手につけたのか、元の出典を受けて書いたのか気になった。調べたところ、ちゃんと出典はあった。
こけし手帖29号の岡崎長次郎特集に西田峯吉さんが次のように「よだれかけ」と書いていた。
「もう一つ指摘したいのは大きいほうの首の周辺というか、襟というか、そこに描いてある模様である。幼児ならば『よだれかけ』というところだろう。これは勝之助も稀に描いている(例えば、『こけしと作者』一九五頁にある勝之助の九寸: 右写真の中央)。従って長次郎の独創ではない。斉藤松治も粗雑ながら描いている。温海の阿部常松、常吉も描く。これは一体、どのように理解したらよいのだろう。以前から疑問としていながら、今もまだ未解決のままである。(手帖29号)」
つまり、西田さんが不思議に思った模様、しかも何人かに共通する模様を、仮に「よだれかけ」と呼んだものと思われる。しかし、この様式の起源は不明で、未解決としている。
しかし、ここまで西田さんが書いてくれているなら、この様式の起源はある程度推定できるような気がする。以前書いた閑話(12)の阿部常松と「くびれ型」の伝播と全く同じ起源と伝播を想定できるからだ。
起源と伝播の流れを模式化するとこの図のようになる。
すなわち、
- アイディアは土湯の太子型(地蔵型)にある。ただし、土湯の地蔵型自体には「よだれかけ」は描かれていない(一人挽き前にロクロ模様は無く、別の模様だったとしたら、そこには描かれていたかも知れない)。
- 常松は明治二十年頃、新意匠考案を競っていた青根でこの太子型を作り、他の産地の工人に大きな刺激を与えた。殆どの産地が直胴のシンプルなこけしだけだったからである。この時、地蔵型から子育てのお地蔵様の「よだれかけ」を描彩に加えることを思いついた。最初は地蔵がヒントであっても、幼児のようで可愛いから人気の高い模様になったのだろう。
- 弥治郎も直胴作りつけが殆どだったが、栄治・幸太以後多様な造形に挑戦するようになった。飯坂の栄治は太子型をもとに胴にくびれのある飯坂型を生み出した。そのとき地蔵の赤い「よだれかけ」から、首周りに赤く太いよだれかけ状の轆轤模様を入れた。
- 松治は師匠常松を素直に継承し、「よだれかけ」を採用した。松治は幼児のまえかけの様なはっきり「よだれかけ」とわかる模様を描いた。「よだれかけ」は岡崎長次郎や我妻勝之助等、他の蔵王高湯の工人にも伝わった。
- 山形の小林一家に滞在した常松は、山形のこけしにも影響を与えた。白い直胴だけの山形こけしは、胴にくびれをもち、「よだれかけ」状の首飾りを付けるようになった。
- 明治三十四年ころ山形の倉治に師事して、作並に開業した平賀謙蔵は同様の首飾り模様を描く。
閑話(12)の「くびれ型」の伝播と、「よだれかけ」がまったく同じように伝わっているというのは非常に興味深い。しかも、二つの仮説は、互いに補強しあう。
いろいろな形態、描彩のバリエーションは一人挽きに変わった時代(明治一七年〜明治二四年頃)に、各産地の工人が一つの場所に集まって影響しあったことから生じていった。それがそもそも系統が分化した契機となり、その時期に直胴からくびれを入れて変化させるきっかけがあり、また新考案の模様や描法も工夫があって、それがさまざまな形で各地に定着したのである。常松はそのきっかけを作った主要な工人だったのだ。常松が青根で新意匠考案の時に、土湯の地蔵型という名称のイメージから「よだれかけ」の着想を得て描いたとするならば、作る側の工人も「よだれかけ」と呼んでいた可能性がある。西田さんが「よだれかけ」と見た感性は相当なものだ。
西田さんの生存中に、「よだれかけ」伝播の話をしてみたかった。慎重な西田さんは、きっと最初は首をひねりながらも、いろいろな実例を引っ張ってきて下さって、実りのある議論ができただろう。
掲載写真のこけし: 斉藤松治・佐藤栄治(鹿間旧蔵)、我妻勝之助(橘旧蔵)、佐久間由吉地蔵型・平賀謙蔵(らっこ)、阿部常松(小野洸旧蔵)、阿部常吉(高橋五郎蔵)、岡崎長次郎・小林倉吉(深沢)
(May 4, 2013)