空想こけし博物館(2)

"un Musee Imaginaire Kokeshi"


最古の奥山運七と言われたこけし

DIAGHILE

奥山運七
明治末年ころの作

首は鳴子式のはめ込み、
胴は白胴で、ロクロ線の彩色もない。
運七として最も古いものと言われていた。

みずき会は、昭和三十六年に発足した同人制のこけし研究会。古作こけしを出来るだけ主観を廃して科学的に比較研究しようとした集まりだった。研究記録はのちに「こけし研究ノート」(全十二冊)として刊行された。その十一冊目にあたる第二輯第五号は「運七と喜代治」の比較研究だった。運七は数が非常に少なく、極々古い蒐集家しか持っていなかったので、昭和十七年発行の「鴻」十四号には「運七作と云うものはどの様な木ぼこか、今のところ確実なものが発見されて居りません」と書かれたくらいだった。従来、運七作とされていたものの大部分が喜代治作だったり、胴描彩には運七妻女ヤスのものが混ざっていたり、その鑑別は難しかった。

現在では各蒐集家所蔵の運七のこけしが図録で紹介されるようになったから、図録上での比較検討も可能になったが、昭和四十年時点で四本の実物の運七こけしが一堂に会して喜代治作と比較検討されたというのは画期的であった。ここで運七と喜代治の特徴がかなり明確になって、多くの疑問はほぼ解消したのである。

この「こけし研究ノート」に、運七の最も古いものとして写真掲載されたのがここに紹介した白鳥正明旧蔵のこけしである。首の入れ方は、他の殆どの運七が遠刈田式の差し込みであるのに対して、この運七のみ鳴子式のはめ込みを採用している。肩及び胴上部に入れられる彩色もなく、胴は白胴。息子喜代治に見せても「こんなはめ込みのこけしは見た記憶がない。」という位に古い。

後年、尾形政治の旧宅跡から肘折古作がいくつか見つかったが、それらは殆ど白胴で、はめ込みのものもあり、この運七と形式的には近いものだった。尾形旧宅の古作は明治三十年代のものとされるから、この運七も喜代治(明治三十八年生まれ)が物心つく以前のもの、すなわち明治末年作という可能性がある。

しかし、「こけし研究ノート」は、不鮮明な写真説明の末尾を次のような衝撃的な一文で締めくくっている。

「全体に鳴子系の古型に近い感じのするもので、いろいろな意味で注目に値するが惜しいことに実物は最近事故で失われてしまった。」

この運七こけしは、タクシーのなかに置き忘れられて、その後二度と現れることはなかったのである。

 

修復前のこけしを見る


ホームページへ