木人子閑話(18)


鎌田千代治は天狗でござる

rakkomokuroku鎌田千代治が岩手県花巻から少し入った臺(台)温泉の伝説的こけし作者であることは古くから知られていた。おそらく花巻の煤孫茂吉からの聞き書きであろう。煤孫茂吉はこの鎌田千代治から最初に木地挽きを学んで、キナキナの作り方を習得したが、こけしを習う間が無く千代治のもとを去ったという。その聞き書きゆえに、鎌田千代治はこけし作者として知られ、古く臺温泉で入手したこけしは鎌田千代治の作ではないかといわれてきた。
中井淳の収蔵品のラッココレクションは、その後継者高久田脩司によって保存拡充され、戦後には橋元四郎平の「福島のこけし」(福島テレビ刊)や「らっこコレクション図譜」(グラフィック社)で写真公開されたが、それまでは長い間眼にすることの難しいコレクションの一つであった。以前は中井淳の追悼文集である「中井淳集」に僅かに群像写真があって、その一つに臺・鎌田千代治の名があり興味を引くくらいだった。そうした時期に、昭和四十一年中沢鞫セ郎氏が高久田氏の手元にあった手書き目録を「らっここれくしょん目録」としてガリ版刷りで刊行したのは一つの画期的な出来事で、とくに目録中にある入手経緯を記した中井氏の小メモは興味津々たるものだった。この目録の中で、鎌田千代松(目録では千代松名になっている)は収蔵番号307として、昭和十一年に臺温泉の土産物屋で子供が遊んでいたものを貰った由の記載がされている。臺で手に入れたゆえに、臺の作者鎌田千代治としてコレクションに加えたものと思われるkamata
そのこけしは、もう子供の手垢で真っ黒になったもので形態は完全に鳴子系のこけし、面描・胴模様は殆ど識別しがたい。ただ鼻は面部下方に大きく描かれ、豊かな鬢とともに、古風な描彩を思わせる。常識的には鳴子作者の古いものが臺温泉に移入されたもの、あるいは鳴子系の作者が臺周辺で作ったものである可能性が高い。

中井氏採取の臺こけしのほかに、米浪コレクション(戦前のこけし誌、戦後のこけし手帖・十二号で写真紹介)、天江コレクション(こけし這子の話掲載)にも臺より入手というこけしがある。米浪氏のものは円筒状の胴に丸い頭で肩はほとんどない。形態は古い鳴子あるいは一ノ関などに近い。天江コレクションの作り付け立ち子は完全に鳴子系で、古鳴子こけしとしても優品である。作者名はいづれも不明であるが、やはり鳴子関連の作者が臺周辺で作ったものであろうといわれている。

昭和四十二年、私は幻の作者を追求して臺温泉に向かい鎌田千代治の実像に迫ろうと試みたことがあった。その結果、千代治、一説には千代吉とも言われたこの人物は、鎌田甚兵衛・ヨシの長男として万延元年五月二日に臺温泉で生まれ、戸籍名は千代松であることがわかった。千代松の家は代々甚兵衛を名乗り、千代松も家督相続後は甚兵衛を襲名した。
父甚兵衛は羽黒の修験道を学んで「臺の天狗」と呼ばれ、同じ修験道仲間の「清六天狗」とも仲が良かった。清六天狗の話は、柳田國男の「遠野物語」にも出てくるから、当時の有名な修験者であったろう。菊田定郷の編んだ「仙台人名大辞書」には「セーロクテング{清六天狗}健脚家。一ノ関山ノ目の飛脚にて身体軽捷比なし、一ノ関仙台間相距る二十五里、清六一日にて往復するを常とす。その道路を行くや飛ぶごとく里人依って清六天狗という(千早多門氏稿)」と記されている。

鎌田千代治は慶応元年六歳のときに、この清六天狗について諸国を遍歴し、明治十二年二十歳になってようやく臺に戻った。遍歴時代に清六について修験道を学んだが、鍛冶屋、石工、木地挽きの技術も身につけたといわれる。

臺に戻った千代治は松田旅館裏手の臺川の上に木の板を渡して作った木地小屋で、細君に綱を取らせて、二人挽き、立木の小物を専門に挽いていた。盆・茶櫃といった大物塗り下ではなく、温泉宿で鬻ぐ小物を挽いていたのであろう。橘文策氏の聞き書きによれば「こけし、コップ作りは巧妙で、県令石井省一郎から賞状を得た(教室だより、五十号)」という。

修験道による祈祷治療なども頼まれると行っていたらしく、特に傷寒(腸チフスの類か)には効力を発揮したらしい。修験道は陰陽道とも関係が深く五行と方位を司どる八將神(太歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神)を祀った。今日でも花巻温泉から臺温泉に向かうと不動の滝の近くに鎌田甚兵衛発願の「八將神万人供養」の大きな石碑が建っている。まさしく代々の「臺の天狗」を千代治も継承していたようだ。

花巻でキナキナを作った煤孫茂吉は、明治二十一年十一歳のとき、臺温泉で開業間もない鎌田千代治について木地挽きの修業をした。茂吉の祖父長次郎と千代治の先代甚兵衛とが友人であった縁による。茂吉は明治二十四年まで臺にいて、その後盛岡に移って松田清次郎の弟子となった。ここで外国旋盤模倣による一人挽きを習得、明治三十三年には花巻に戻って独立開業した。

一方、千代治は最後まで二人挽きで通したが、晩年は眼を悪くして、石工を主にやり、大正十年十二月弐六日に六十二歳で没した。

鎌田千代治のこけし

hasshoujinnさてそれでは、鎌田千代治のこけしはどんなものであったろうか? 

西田峯吉氏がまとめた先人の聞き書きによる千代治のこけしは次のようなものであったという。「首の回るもので、顔を描き、胴には紅葉を描いた。帯のあるキナキナも作った。用材はさるすべりやこさんばらを用いた。木口は鋸による切り離し。」

煤孫茂吉の作る帯のあるキナキナは千代治からの伝承であろう。ただ、千代治はキナキナとこけしを区別して作っていたらしい。こけしは面描もあり、胴に紅葉も描いたらしい。

昭和四十二年に臺温泉を訪れたとき、臺温泉の古老といわれる人たちに話を聞いてみた。千代治死後五十五年のことであるから、七十歳以上の人たちで千代治がこけしを作ったことをことを覚えている人は何人かいたが、作ったこけしそのものについての記憶はどの程度確かか定かではない。それでも一番記憶のしっかりしていたそめや旅館主人と阿部商店老女の記憶を絵に描いてもらいそれを写してきた。

そめや旅館主人の記憶は、五郎城の藤原政五郎との混同があるかもしれない。阿部商店老女の記憶は、西田氏のまとめた聞き書きとも近い。

それでは臺温泉でこけしを作ったといわれている工人を総括的に念のために調べておくことにしよう。

要約すると次の通り。
千代吉晩年の大正期には、千代治とともに藤原親子も臺でこけしを作っていたから、そめや旅館主の記憶はおそらく酉蔵・政五郎のキナキナであったろう。
一方、らっここれくしょんの臺で見つかったこけしは、鎌田千代治というより、高橋寅蔵・鈴木庸吉あるいは近くで働いていた鳴子工人の作という可能性が高い。庸吉は、後年の復活作しか見ることが出来ないので、確かなことはいえないが、鬢は短く上部にあり、鼻は浅い猫鼻を描くことが多かった。らっここれくしょんの黒こけしは、鬢豊かに大きく、鼻も下気味に大きく描いているから庸吉ではないかもしれない。

範囲を臺から花巻周辺の温泉に広げてみると、鉛温泉の大沼岩蔵(明治三十六年頃)、鈴木庸吉(明治三十九年)、大沼甚四郎・小松留三郎(明治四十年)、小松五平・伊藤松三郎(明治四十一年)、大沼万之丞・秋山忠(明治四十三年)、花巻には高橋万五郎・岸正男(明治四十三年)など多くの鳴子こけし作者が働いており、こけしを温泉に供給し続けていた。

こうしてみると臺で入手しうる鳴子系のこけしの作者は極めて多数あったことがわかる。従って、臺で発見された古いこけしの大部分は、やはり鳴子の作者と見るのが妥当である。

それでは、千代治のこけしはどのようなものであったろうか? おそらく阿部商店老女の絵に近いのではなかろうかと思う。清六天狗とともに諸国遍歴中に覚えたとするならば、その源流は清六天狗の主な活動範囲である、仙台一ノ関周辺から鳴子あたりではないかと思う。楓模様などという聞き書きや阿部老女の絵などから、一ノ関の宮本惣七などとの親縁関係も気になるところである。その意味では、米浪氏が昭和十六年に臺温泉で発見した不明こけしは注目に値する。肩のない円筒状の胴に丸い頭は、一ノ関や極々古い鳴子の形を思わせる。

臺で見つけたキナキナ

昭和四十二年に臺を訪れた時、温泉のみやげ物店の薄汚れたガラスケースの隅に、数本のキナキナが転がっているのを見つけた。作られてからは少なくとも相当経っていると思われるが、それほど古いものではなかろう。それでも胴底木口は鋸で切っている。作者は誰か分からない。
参考に作者名のはっきりしたキナキナの主な工人の作を写真で掲げておく。臺発見のキナキナは肩の張りなどがこれらの一群とかなり違うので、松田−煤孫の流れに属するキナキナ工人の作ではないかもしれない。


キナキナといえば、私には一つの思い出がある。私の祖父が盛岡の出身だったから、キナキナとベロベロノカギコのことを祖父に尋ねたことがある。キナキナというおしゃぶりの原型として、ベロベロノカギコという子供の遊びを考えることがあるからだ。この説は、柳田國男が「人形とおしらさま」「鈎占から児童遊戯へ」「こども風土記」などの中で展開している。すなわち「木の股の鈎を使う古い占いの形式、そしてガギボトケさらにオシラサマへという共通した世界があり、それが遊戯化してベロベロノカギコ遊びになった。キナキナやこけしなどの玩具もそこから生まれた。」というもの。
私の祖父の代には、どこの家でもおもちゃ箱にはだいたいベロベロノカギコが入っていて、よく遊んだそうだ。真ん中に一人の子が入って、カギコの鈎を口の前におきながらクルクル回転させて、「ベロベロ、ベロベロ、ベロベロのカギはトウダイカギで、親でも子でも屁ひった方にくるりと向けよ」と唱えて屁の犯人を当てる遊びだそうだ。「トウダイカギで」というのは「尊い鈎で」という意味だろう。柳田の本ではこの「尊い鈎で」というところが「正直神で」となっていた(こども風土記)。
この遊びは、東北に限ったものではなく、江戸時代の俳諧などを調べていると「へろへろの神すかし屁に呼び出され」「ベロベロの神の様なるさしを投げ」などというものも見つかる。全国にあった遊びが、明治に入ると徐々に消えていったのであろう。ただすくなくとも祖父の代(明治中期)までは東北でこの遊びが残っていた。
キナキナとベロベロノカギコに直接どのような関連があったかは分からないが、東北にオシラサマなどとともに近年までこの遊びが残ったということは特筆すべきであり、これが本来小田原などの木地玩具で、両端にしゃぶるところがついている純然たる「おしゃぶり」(遠刈田や山形では今でもこの両端形)からキナキナという人形の形態に変わった一つの要因にはなるかも知れない。 

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