木人子閑話(20)


肘折系の確立と柿崎藤五郎

肘折古こけしの発見

平成十九年秋の鳴子祭りの際に、高橋五郎さんから「すごいこけしを手に入れた。見に来ないか。」と誘われて、五郎さんの泊まっている東川原湯まで見に行った。それは、角ばった大きな頭に、どっしりとした重量感溢れる胴を持つ八寸五分の、今まで見たこともない逸品であった。極めて古く、全体に黒ずんでいるが、顔の描彩ははっきりとわかり、胴の赤の花の染料も残っていて、このこけしの素性を考察するには満足すべき保存状態であり、しかも十分に鑑賞にも堪えうる。
このこけしは村山市袖崎の旧家解体中に見つけ出されたものという。五郎さんはこれを未発見の柿崎藤五郎と鑑定したが、これは藤五郎と影響関係にあった他の作者たちとの様式上の相関を含め、あらゆる特徴から見て、矛盾するところはない。
発見場所の旧家の主は、数代前の爺さんが肘折に行ったとき、幼馴染みの温泉場の木地屋からお土産にもらったと伝え聞いている。しかもその木地師は袖崎の近村の出身だと言っていたらしい。藤五郎の実家である大高根村山ノ内は、このこけしの発見された袖崎から富並川を遡った所にあってそれ程遠い距離ではない、近村であり幼馴染みと言えばこの木地屋は柿崎藤五郎であろう。高橋五郎さんの鑑定には極めて説得力がある。

平成二十年秋、「こけし手帖574号」に待望の高橋五郎さんの報告が掲載された。十分丁寧な考察を加えて、内容の充実した論考になっている。

五郎さんは、この藤五郎のこけしと後述する周右衛門一家の古こけしとを一晩貸してくれたので、私は鳴子の自分の宿でゆっくり眺めることが出来た。見れば見るほどいろいろなことを考えるきっかけをこのこけしは与えてくれる。肘折系の成立過程が今まで以上に具体的に見えてくるのである。

肘折系の成立過程

肘折についてまとまって書かれたものの最初は、加賀山昇次による「肘折こけしの研究」であり、昭和二十九年七月の「こけしの郷愁第七号」に掲載された。「こけしの郷愁」は戦後東京こけし友の会が結成されて最初に発行された機関紙で、昭和二十八年八月に第一冊目、以後隔月に発行された。系統という概念がまだはっきり確立されていない段階で、ほぼ今日の系統分類に近い形で、第2冊目の「土湯こけしの研究」、さらに鳴子、木地山、弥治郎、蔵王高湯、肘折、遠刈田、津軽、南部、山形・作並、と十回続いた。いづれも、その当時としては最良の執筆陣が担当し、高質な内容になっていた。
「こけしの郷愁」が、十二冊刊行された後、東京こけし友の会の機関誌は「こけし手帖」に移ったが、「こけし手帖第四号」の特集は「肘折の工人たち」であり、ここで再び加賀山昇次氏が、肘折の作者を中心に紹介している。
ほかに、まとまった文献としては肘折中学校の教諭であった佐久間昇氏がまとめた「肘折温泉の歴史」(昭和四十一年七月発行)があり、その一節に「肘折こけしについて」として肘折こけしの成立過程を詳しく書いている。その他、同時代に肘折温泉発行の横長の観光ガイドがあり、そこにも肘折こけしの良心的な要約があった。
肘折の系統成立の研究は、この時点でほぼ現在までの水準に到達していた。

肘折木地業の初代は、文政八年(一説には文政二年)生まれと言われる柿崎伝蔵である。伝蔵は肘折の農業八鍬熊蔵を父とし、幼名を酉蔵という。天保飢饉で廃絶した隣家柿崎伝蔵を継いだ。若い頃に肘折を出て、鳴子近辺で木地を修行、一時は陸前築館で働いて肘折伝蔵と呼ばれたという。明治十年ころ肘折に戻り、木地業を開業して藤五郎、運七等の弟子も取った。鳴子時代に誰について木地を学んだのかは不明、ただ築館で働いたという伝承などから、大沼又五郎や岩太郎といった立ち木専門の木地師だけではなく、盆・茶櫃などの横木を挽く木地師についた可能性もある。
岩手県一ノ関(磐井郡山目村)の宮本永吉は祖父惣内が鳴子で修行したというが、惣内は文政六年九月六日生まれ、年代的には伝蔵が鳴子に行った時代と近いであろう。又五郎、伝蔵、惣内はほぼ同年代であり、終生二人挽きである。

藤五郎は、元治元年北村山郡大高根村山ノ内の農家に生まれた。父は井上三太郎。明治十三年十七歳で肘折に来て柿崎伝蔵について二人挽きの木地を修行。明治二十年二十四歳の時、遠刈田新地佐藤周治郎について一人挽きの足踏み轆轤を習った。
佐藤周治郎は周右衛門の長男、明治十七年十月七日周治郎が家督を継いだ。父周右衛門は隠居となり、二男寅治以下の兄弟を連れて下手の新宅に移った。明治二十三年四月周治郎の弟寅治は柴崎利吉長女もとと結婚、同年十月周治郎籍より分家独立家督となったが家はもとのままで周右衛門とともに住んだ。周治郎の家と寅治の家は遠刈田温泉より新地に入って左側に並んでいて、その奥が佐藤茂吉の家だった。
井上藤五郎が弟子となっていた頃、周治郎のもとには弥治郎の佐藤栄治(伝内、勘内の父)が来て一人挽きを学んでいたし、やや遅れて蔵王高湯の我妻勝之助も学びに来た、一方寅治のもとには毛利栄治(後の飯坂の佐藤栄治)が修業に来ていたので、周治郎、寅治兄弟の家は周右衛門系列のこけしが各産地へ種々の影響を与えていく揺籃の場ともなっていた。
さて、遠刈田での修業を終えた藤五郎は一旦故郷山ノ内に帰るが、やがて肘折に戻り、柿崎伝蔵に見込まれて養子となって木地業を継いだ。奥山運七は既に二人挽きの修業を終えていたが、藤五郎について一人挽きの手直しを受けた。
藤五郎は明治二十七年伝蔵が死んだ後、明治三十五年伝蔵の娘みねと結婚して三男一女をもうけたが、木地を継承するものはいなかった。明治四十五年六月二十七日没、四十九歳であった。

ところで、伝蔵のこけし、藤五郎のこけしがどのようなものかは実物が残っておらず、全く解らなかった。伝蔵は鳴子の古いものに似ていたであろうし、藤五郎はそれに遠刈田の要素が加わって、運七に近いものであったろうという程度の推定しか出来なかった。今回、高橋五郎さんによって発見された藤五郎のこけしは、はるかに想像していた域を超えて、上記の肘折こけし成立の歴史に明確な、そして新たな具体像を与えることになったのである。

藤五郎のこけし

左に掲げたのが、高橋五郎さんに発見された柿崎(井上)藤五郎のこけしである。まず形態は、角ばった大きな頭に、どっしりとした重量感溢れる胴が印象的であるが、特に胴上部の二本の鉋溝に注目すべきであろう。
この鉋溝を見ると、運七が肩に赤あるいは緑のロクロ線を入れてその下に鉋溝を入れているのは、この藤五郎の下の鉋溝が残ったもの、周助の胴上の鉋溝はこの藤五郎の上の鉋溝が残ったものかも知れない。
いずれにしてもこの肩のカーブと二本の鉋溝は古式の鳴子のイメージが強く感じられ、柿崎伝蔵からの伝承である可能性は極めて高い。この形は所謂古一ノ関と言われる黒こけしのイメージにも一脈通じている。ほぼ同年代の又五郎、伝蔵、惣内は、共通してこのような量感あるフォルムのこけしを作っていたのであろう。

さらに重要な知見は高橋五郎さんが「こけし手帖574号」で議論しているように周右衛門系で当時作っていたこけしの特徴がかなり明確に解かってきたこと、それによって逆に五郎さんが持っている遠刈田の極めて古いこけしが周右衛門一家のものである可能性が強くなったことである。それは撥鼻と結び口の様式である。五郎さんが掲げた「撥鼻と結び口の系譜」をもう一度見てみよう。周右衛門一家で修業した工人はその後郷里に戻ってからでも一様に同様の撥鼻と結び口を描く。飯坂の佐藤栄治、今回発見された柿崎藤五郎も同様である。とくに、飯坂の栄治と藤五郎の結び口は独特の描き方で酷似している。

従来は、佐藤友晴が紹介して解説した「おいちの描彩」(蔵王東麓の木地業とこけし)や松之進が橘文策氏の注文用に描いた木地人形記があって、松之進の家(吉郎平系列)の描彩の変遷は良く知られていたが、一方の周治郎系列についてはあまりはっきりしてはいなかった。
しかし、周右衛門がこけし作者であったことは確かである。周右衛門四男の直助は、「周右衛門が作った盆とこけしとやみよが伊達藩主お買い上げの光栄を得た」と語っていたし、直助自身も優れたこけしを多く作った。こけしの伝承について直助は、「家伝の業で父兄が教えた最初は木取りや玩具の着色だった」と語っていた。ただ今残っている直助のこけしがその父周右衛門や兄の周治郎、寅治からの伝承か、一人挽き移行期の新考案によるものかはっきりしない。ただ木目模様については明治二十二年頃に直助が創作したものという。
こうしたなかで、周治郎系列の古い工人達が、撥鼻と結び口の面描を描いていたということが見えてきたのは大きな収穫である。高橋五郎さんが手に入れた「南北堂」旧蔵の遠刈田古作こけしはこの祖型を良く残しており、周右衛門あるいは周治郎作の可能性がある。私はこの古こけしと新発見の藤五郎を枕元に並べて鳴子の一夜を過ごしたのである。

藤五郎のこけしの系譜

ところで肘折の藤五郎のこけしがはっきりした以上、このこけしの型はどのように後の工人に引き継がれたかを考える必要があるだろう。
こけしの味は大分違うが、折に触れて藤五郎の型に回帰していた工人は実は周助である。藤五郎から直接一人挽きを学んだ運七は、こけしの型としては伝蔵を守ったように見える。

周助は佐藤栄四郎の長男として遠刈田で生まれ、栄四郎から二人挽きを学んだ。栄四郎は弥治郎の新山一族の出であるが遠刈田佐藤周八の養子となった。周助は明治二十三年に遠刈田を出て山形市に移り、薄荷入れなどを作っていたが、明治二十八年最上郡大蔵村熊高に移って農具師の職人を勤め、明治三十三年二十八歳で肘折に来て尾形政治商店の職人となった。このとき柿崎藤五郎は三十七歳、柿崎家を継いで盛んに木地を挽いていた時期にあたる。伝蔵は既に明治二十七年に亡くなっていた。
周助は尾形の店に入って、肘折風のこけし製作を指示された時、おそらくその当時肘折で製作されていたこけしを一通り模作してみてから自分の型を確立したと思われる。木人子閑話(7)で触れたように、尾形商店が取り壊されたとき出てきた数本のこけしは形態は違っているが筆法は同一人、すなわち周助の手になると思われ、周助が当時の肘折のこけしを模作して試行錯誤していたときのものであろう。
木人子閑話(7)では山中喜雄氏のものが藤五郎写しではないかとしたが、今回藤五郎の実物が出て判明したことは、実は山中氏のものではなく、宮田さんが手に入れた七寸の方(保存がやや悪い方)がむしろ藤五郎を写した可能性があることがわかった。

もう一度尾形商店から出た古肘折を並べてみると、左から二本目の宮田昭男旧蔵は鼻は垂れ鼻になっているものの、口は藤五郎の結び口そのものであり、目の描き方が他に比べて水平に切れているところなどを見ても藤五郎の作風を試していることがわかる。頭も藤五郎の角頭である。周助は後年にもこの藤五郎の作風を継承したこけしを作っている。有名な久松旧蔵の黒頭の周助も結び口で角頭であり、藤五郎の影響を残す。三本目の宮田蔵は疑うことなく運七を写したものであろう。目の描き方の特徴は後年の運七の特徴ともつながるので、よく写しているといえる。四本目の木人子室蔵はやっと自分の型が定まったというところか。後の周助は、このこけしから出発したと言ってよい。

さて、それでは左端の山中蔵はどういうものであろうか、もっとも鳴子に近い形態から見て柿崎伝蔵の型と考えるのが自然かもしれない。ただ伝蔵は明治二十七年に七十歳で亡くなっており、何時ごろまで伝蔵が製作していたかはわからない。周助が明治三十三年に肘折に入ったころに手本になるような伝蔵のこけしがまだ残っていたであろうか。他に可能性のある工人として、描彩巧みで後年丑蔵も描彩見本を描いてもらったという八鍬林蔵(亀蔵)がいる。ただ林蔵は明治二十五年に藤五郎について木地を始めているから、むしろ藤五郎に近い作風であろう。山中蔵は、あるいは運七写しのバリエーションかもしれないが、一応伝蔵写しの可能性があるとしておこう。

このような環境の中で、明治三十三年の周助、三十五年の文六、三十九年の丑蔵が、どのようにして肘折の作風を吸収していったかという視点でそれぞれのこけしを眺めるのも楽しい。高橋五郎さんが「こけし手帖574号」で触れているように、フランケンシュタインと蒐集家から呼ばれた大正期の丑蔵古作は、結び口でもあり、藤五郎の系譜につながるものかも知れない。

今回の高橋五郎さんの藤五郎発見は久々に興奮を覚える出来事だった。そして、これは肘折系の確立を超えて蔵王東麓の古こけしを考える上でも実は重要な発見だったのである。 ==>蔵王東麓のこけし描彩の系譜


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