Q:こけしって何ですか?
A:東北の温泉地で江戸末期から大正初期にかけて湯治客に土産物として売られた轆轤(ろくろ)挽きの木製の人形玩具が本来のこけしです。
Q:こけしはどんな人が作ったのですか?
A:温泉地あるいはその近くに住んで轆轤(ろくろ)で木地製品(お椀やお盆)を作っていた人たちです。木地屋とか木地師、轆轤師と呼ばれていました。
Q:「こけし」ってどういう意味ですか?
A:この木人形には場所によっていろいろな呼び方がありました。木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などその産地によって違っていました。こけしという統一した呼び方にしたのは愛好家達で昭和十四年夏のことです。こけしは、木で作った芥子人形の意味です。
こけしの語源については別のページで詳しく説明しています。
Q:こけしはいろいろな産地の中でどこで最初に作られたのですか?
A:はっきり分かってはいません。たぶん蔵王東麓の遠刈田(とおがった)あるいは作並(宮城県)が一番古く文化文政(一八〇四〜一八三〇)から作っていたと思われます。遠刈田とは別に鳴子(宮城県)、土湯(福島県)でも天保から弘化にかけての頃(一八三〇〜一八四七)には作り始めていたようです。
Q:こけしは産地によって形が違うのですか?
A:轆轤で作り、頭と胴だけで手も足もない木の人形と言う点では皆同じです。でも産地によって、形態・描彩にそれぞれ特色があります。それを十、あるいは十一に分類しています。一般的には土湯、弥治郎、遠刈田、蔵王高湯、肘折、作並、鳴子、木地山、南部、津軽の十系統に分類します。人によっては作並から山形を独立させて十一系統にしています。
Q:こけしを作った木地師とはどんな人たちですか?
A:こけしは江戸末期に生まれましたが、木地師の歴史はずっと古くまで遡ります。日本には、応神天皇以後に渡来した秦一族が養蚕、機織りなどの技術者とともに木地師を連れてきたと言われています。木地師は琵琶湖湖東に定着し、法隆寺の百万塔(無垢浄光陀羅尼を納める木製三重小塔、七七〇年)制作などで活躍しました。滋賀県神崎郡永源寺町小椋谷の君ヶ畑や蛭谷が今でも木地屋の根元と言われます。ここには木地師の祖神と言われる惟喬(これたか)親王をまつった大皇器地祖神社があります。その後、良材を求めて日本各地の山々へ移住しながら神器、仏器、塗下などを制作しました。木地師はこの大皇器地祖神社の氏子で、小椋(おぐら)姓を名乗る者が多くいます。各地の木地師から氏子料を徴収するための氏子狩(うじこがり)は明治まで続いていました。
木地屋のふるさとに関するリンクを紹介します。
Q:惟喬親王って何者ですか?
A:文徳天皇第一皇子で、皇位継承を弟の惟仁親王(清和天皇)に譲り、比叡山の麓小野の里に隠棲したと言われています。歌も多く残っています。どういう理由か、木地師の祖と言われています。藤原良房の専横で弟に位を譲った悲劇の人というイメージがあり、小椋谷の山里でドングリのへたを見て轆轤を考案したという伝説があります(惟喬親王がこの地に来た史実はなく、また轆轤の技術は大陸渡来ですから、この伝説は職能集団の開祖神話というところでしょう)。
Q:氏子狩って変わった制度ですね?
A:遠くまで散った木地師が毎年根元の地に帰って氏子料を払うわけにはいかないので、逆に神官が奉加帳を携えて諸国の木地師をまわり神役代銭や烏帽子料を徴収してそのかわりに神札や木地屋文書の写しを与えたんです。君ヶ畑、蛭谷の側からすれば全国に散った木地師を統合するために行ったわけですが、木地師にすれば身分や権利を保障する木地屋文書をもらえるのでこれまた大切な仕組みでした。
一説には、木地師側が君ヶ畑、蛭谷との繋がりを切ることが出来なかったもう一つの理由は、滋賀の良質な鉄鋼があったからだとも言われています。木地挽の鉋には良質の鉄鋼が必要でした。
Q:木地屋文書ってそんなに大事なものなんですか?
A:朱雀天皇綸旨(りんじ)、正親町(おうぎまち)天皇綸旨、信長免許状、秀吉免許状など写しのほか親王縁起、宗旨手形、印鑑、木札を総称して木地屋文書と呼んでいるんですが、諸国を渡り歩いて良材を伐る木地師にとってその土地の人たちとのトラブルを回避するために是非とも必要だったんです。今では偽書だと言われていますが天皇名で「全国何処の山でも八合目以上の木は伐採自由」というような内容が書かれていて、時の権力者が産業振興の意味もあってこれを認めていたため、実際に江戸末期までは木地屋文書が実効を持っていました。
写真は朱雀天皇綸旨の写しとして木地屋が大切にしていたものです。
Q:江戸末期頃に木地屋文書の効果が無くなったんですか?
A:こけしの誕生とも関係があるから一寸説明しましょう。氏子狩は明治十五年頃まで形式的には続いていたんですが、実質的には江戸末期に各地で論山事件がおこって、文化文政頃に実際的には制度の崩壊が起きました。江戸末期には農民の側が山に入るようになって、農民と木地師の利害が衝突したんですね。もうこのころになると時の権力者も木地師を擁護しなくなった。特権を失った木地師たちは、山を下りて漆器産地や温泉地などに定住するようになりました。
Q:木地師が山から降りたこととこけしの誕生に関係があるんですか?
A:こけしが生まれるには次の三つの条件が必要だったと言われています。@木地師が山から降りて温泉地に定住し、湯治客の需要を直接感じるようになる。A赤物が伝えられる。B湯治習俗が一般農民に一種の再生儀礼として定着する・・この三つ。
Q:赤物って何ですか?
A:赤物というのは赤い染料を使った玩具や土産物のこと、赤は疱瘡(天然痘)から守るといってこの赤物を喜んで買い求め、子供のもてあそび物にしたんです。赤物玩具を作る人のことも、赤物玩具を背負って行商に売り歩く人のことも赤物師と呼んでいました。木地を挽いて作る赤物のもっとも盛んな産地は小田原や箱根だった。ところが江戸末期、文化文政から天保の頃に東北に伝わった。東北の農民達がさかんに伊勢詣りや金比羅詣りに行って、その途上、小田原、箱根の木地玩具(赤物)を見るようになったからなんです。湯治の農民達も土産物としてこの赤物の木地玩具を望むようになった。いままでお椀やお盆のように白木のまま出していた木地師が、色を付けた製品を出すというのは大変なことなんですよ。山にいたら決して起こらない、木地師が山から降りて湯治場に定着し、湯治客と直接接するようになって初めて起こるわけです。
Q:湯治習俗もそのころ始まったんですか?
A:貴族や大名などの湯治の記録はずっと昔から有る。関西の有馬や牟婁(南紀白浜)なんか有名ですね。東北でも伊達公が早くから作並や青根で湯治をした記録があります。しかし一般農民が田植えの後などに湯治へ出かけるようになったのはやはり文化文政頃らしい。湯治は疲れた身体を回復すると同時に五穀豊穣の生命力を山から里へ移す宗教行事の色彩もあったように思います。だから湯治の土産としては五穀豊穣のシンボルのような物がふさわしかった。そうした状況の中で、赤物木地玩具の一つとしてこけしが生まれてきたと思います。
Q:こけしは最初から十系統だったんですか?
A:最初は蔵王東麓と福島土湯、そして鳴子の三つくらいに分類できる程度だったと思います。形態や描彩が多様化して十系統に分化するには一つの技術革新が必要でした。それは轆轤の挽き方です。元来、綱取りと鉋取りの二人で行っていた二人挽から、明治十七年頃足踏みの一人挽への転換がおこりました。江戸や小田原から渡りの職人が一人挽を伝えたんです。この技術習得のため各地の木地屋が青根(遠刈田の近く)へ集まりました。同時に各種の染料も伝えられ、様式、模様の混交が起こる。他との接触、技術、材料の変革に加えて、一人で作業できることから新しい物を生み出す余力も生じました。こうして創作意欲が高揚することにより、百花繚乱の如くに急激な様式の多様化が進みました。こうした経験を持った木地師が自分の土地に戻って新しいこけしを作り始めた結果、十系統が成立した。こけしの最盛期は明治二十年頃から四十年頃まで続きます。
==>十系統の画像
Q:明治四十年以後どうなったんですか?
A:大正時代になると、キューピーなどのセルロイド玩具やブリキ玩具が東京から東北に入るようになり、子供達はこけしで遊ばなくなりました。こけしの売れ行きは落ち、多くの工人が転業した。しかしその頃、仙台や東京の好事家達がこけしに興味を持って、蒐集を始めるようになりました。昭和十五年頃が第一次ブームで、明治末期以後に転業した工人を発掘して復興させたりしました。戦後、全国津々浦々の観光地にこけし様の土産物が多く現れましたが、これは本質的にこけしとは別の物と言っていいでしょう。昭和二十年代後半になって戦前こけし界で活躍した人たちが各地に愛好会を結成し、ようやくこのころ戦後のこけし蒐集活動が再開しました。昭和四十年頃に第二次ブームがあって、頒布会、産地への旅行会、古品のオークションなどが行われるようになりました。昭和五十三年に神奈川県立博物館で「こけし古名品展」が有りましたが、このころが戦後のピークだったように思います。
Q:はじめまして。いきなりですが、友達の外国人から質問されて、答えられなかったのでメールしました。
こけし人形は土産品として作られたみたいですが、あの人形の意味はあるのでしょうか?
なぜあの様な形になったのでしょうか? 例えば、招き猫は「福やお金を招く」と言う意味がありますよね。
その様な意味がこけし人形にもあるのでしょうか? ありましたら、是非教えてください。
お願いします。(SKさん)
A:こけしはどうしてあの形をしているのか、なぜ手足がないのか?これは昔からいろいろ言われているが定説と言ったものはありません。
同じ工人の作る木地玩具には、もっと複雑で車が付いていたりちゃんと動く手や足が付いていたりするものがあります。だから手足を作るのが面倒あるいは手間がかかりすぎるという理由ではないでしょう。もし手足が大事でそれで付加価値がついて売れたなら、工人はそういうものを作ったでしょう。飯坂の古いものに手足の付いたこけし様のものがありましたが、これが一世を風靡したという事もなく、これはこけしというより木地玩具の一種だったと思います。むしろ手足があるものは、こけしとしては売れなかった。あの頭と胴だけの棒状のものが、こけしとして買う側に認められていたのです。
なぜ棒状のものが求められたか。おそらく何らかのものが憑依するのが棒あるいは杖状のものという古い記憶(集合的無意識)と関係しているようです。イタコの繰るおしらさまなどとも深いところで通底しているのかもしれません。湯治から農民が五穀豊穣の力を再生させて、自分の村に帰るとき、その山の神の力を憑依させて持ちかえるためには棒状のものが必要で、それがこけしだったのだと思います。
外人の方に説明するのでしたら、相手がもし民俗学に詳しい人なら「棒と錫杖のシンボリズム」、たとえばスピリットの使いである道化師(アルレッキーノ)などが棒や杖をもっていることを説明すれば分かってもらえるかもしれません。
この解答については、宮城教育大のソーロットさんはじめ幾人かの方から「良く理解できないので、もう少し詳しく教えて欲しい」というメールを戴きました。すこし、難しい議論になりますが昔これについて「こけしの杖あるいは棒の象徴作用」と題して書いたものがありますので興味があれば参考にして下さい。→「こけしの杖あるいは棒の象徴作用」
Q:こけしというものは「子を消す」という意味で作られた、という話を聞いたことがあるのですが、水子の霊を慰めるためのもの、というのは本当ですか??(SIさん)
A:こうした議論は、戦前から昭和三十年代頃まではほとんど聞かれませんでしたが、昭和四十年代頃から少しづつ耳にするようになりました。誰が言い出したかはっきりしませんが記憶では、私が最初にこの説を目にしたのは詩人松永伍一の本だったように思います。人形というのは感情移入が容易に行えるものなので、形にならなかった我が子の形象として母が何らかの具体的なイメージを求めたとき、その対象がこけしだったというのはある程度説得力を持つ作話だったのでしょう。この話の文脈に貧しい東北の「間引き」という暗くどろどろとした怨念のようなものの存在することが農民詩人の詩興をさらに捕らえたのかもしれません。さらに中絶などが社会問題として顕在化するに従って、同じ人口調整の間引きにまつわるこうしたイメージ喚起はおおいに情緒的にうったえるところがあり、テレビのこけしの里訪問番組などでも、この基調でストーリーが組まれたりする事が往々にしてありました。
つぎに、事実はどうかという点ですが、こけしという呼称はもともと仙台周辺のごく一部で使われていたもので、福島では、でこ、きでこ、でころこ(木偶系)、宮城南部では、きぼこ、きほほこ、おぼっこ(這子系)、また広く、にんぎょ、きにんぎょう(人形系)とも呼ばれていました。仙台周辺では大崎八幡などで売られた有名な堤土人形の赤けし(芥子人形)に対して木で作った芥子(木芥子)あるいは小さな芥子人形(小芥子)の意でこけしが使われたようです。語源を辿る上では「子を消す」という言葉の使い方はどこを探しても有りません。仙台の高橋五郎さんは東北では間引くことを、「おろぬぎ」「おりぬき」あるいは「もどす」と言って「消す」という表現を使った例はないと言っています。七歳に満たない子供はまだ神の世界に属するものでした。間引くことはそれをお返しするという気持ちで「もどす」と言ったのでしょう。神の世界のものに対して、「消す」という不遜な言葉は決して使い得なかったのです。
つまり、「子を消す」と言うことからくる「子消し」は実際に使われたことのない、机上の創作用語ということになります。さらに、こけしにまつわる習俗を見ても五穀豊饒を祈った一種の再生儀礼である湯治(温泉に行く事)に深くかかわっており、むしろ安産や子授けに結びついています(豊饒と多産のアナロジー:復活祭で多産の兎が五穀豊穣のシンボルとなるのと同じ)。水子や間引きとは180度逆の象徴です。したがって、歴史的には「子消し」がこけしに結びつく事実も可能性もなく、この説を積極的に支持する材料は何もありません。
また、水子信仰そのものの研究の側からも、1960年代後半の水子供養現象の発現を、「潜伏していた中絶の否定的経験の顕在化」というように理解されています。江戸時代では、生まれて間もない幼児でさえ、それはまだ神の領域のものであり、間引くのは敬虔な気持ちをもって、神にお返しするものでした。それゆえ「もどす」といった表現がとられたのでしょう。同様に中絶は、明治政府による堕胎罪があったにもかかわらず、必ずしも深刻で後ろめたいものではありませんでした。さらに人工中絶が罪悪感を伴って女性を過酷な罪悪感に追い込んだ歴史はずっと新しい。多分1960年以降のことです。この問題の顕在化の理由として、「伝統的地域社会では、間引きや子おろしは生存のための行為として共同体の了解のなかで正当化される上、子ども特有の霊魂の再生観が罪の意識を生じさせない。これに対して、都市化や核家族化が進んだ現代社会では、中絶の責任が個人に負わされる上、水子は成人と同じ霊魂観を認められる存在となる。(星野正紀・武田道生)」という指摘があります。現代の女性達は中絶に対してその負い目を個人で負わざるを得なくなって、そのプレッシャーに晒されているのです。
議論を要約すると、胎児にすら人権があるということが強調され、米国での人工中絶論争などが大きく取り上げられるようになった時代が1960年代で、ここで人工中絶に対する罪の意識は強くなりました。さらに近代化とともに、社会全体で負っていた責任が個人の問題へと変質していったとき、社会的なプレッシャーは個人に向かうようになりました。そのプレッシャーを引き受けざるを得ない女性達は贖罪を保証する何らかの対象を必要とし、新しい形での「水子地蔵」「水子供養」が始まったと考えられます。そしてこうした現象自体が宗教社会学の一つの研究テーマにすらなっています。
ところで、昭和四十年頃から言われ始めた「子消し」説も、水子信仰の発現とほぼ期を一にして生まれてきたもので、こけしに関するこの説の発生自体が水子信仰の社会的文化的背景と同根と思われます。すなわち、「形にならなかった我が子、生育させられなかった我が子の代わりにこけしを大切にした」という「子消し」説の底流に流れる心情は、同じ負い目を持った女性達には強い共感を呼ぶものであり、癒される話しだったに違いありません。
さて、事実関係は上記の通りなのですが、水子供養に共感し、こけしが「子消し」を供養するものであって欲しいという社会的文化的要求が今も存在しているとするならば、事実ではなくてもこの説は繰り返し出てくるに違いないのです。こけしは多様なイメージを受け止め得る力を持っているがゆえに身に覚えの無いイメージさえ負わせられる宿命はいつまでもあるといわざるを得ません。
Q:私はNYに住んでます。友人が骨董屋で見つけたというこけしに似た木でできた置物を見せてくれました。彼女はその木がとても固く、何の木なのかに非常に興味をもって私に質問しましたが、答えられませんでした。こけしは一般的に何という木材を使っているのでしょうか?(NKLさん)
こけしの用材は、「みずき」という比較的柔らかい木が一番良く使われます。名前の通り水分が多く(枝を折ると切り口から水がしたたるくらい)、炭を作るにも不適で他に使いみちがあまり無い雑木です。しかし、小正月にはこの木の枝を切ってきて、だんごをつけて飾る風習があり、別名「だんごのき」ともいいます。古俗縁起と関係の深い木でもあります。そのほかには「いたやかえで」も良く使われます。これはかたいやや重い木です。しかし、メープルシロップのメープルとも親類で、やはり樹液の多い木です。樹液の多い木は聖なる木というイメージがあるのかもしれません。こうした木を伐ってから半年くらい十分乾燥させてこけしを作ります。「みずき」「いたやかえで」以外では「びやべら」「じしゃのき」などが良く使われます。
ところで、私もいま月に2-3週はアメリカのNJで仕事をしています(1999年)。5月にRoute80を西に少し行ったWaterloo
Villageというところに行きました。ここは200年くらい昔、鉄鉱の集散地で栄えた場所で古い村がそのまま残っていて運河の跡もあり、なかなか楽しいところです。これは当時もっとも栄えていたフィラデルフィアではなく、何故ニューヨークがその後の歴史で経済の中心地になったかという答えを与えてくれる場所でも有りました。ここに鉄鉱の産地があり、その鉄鉱は運河でニューヨークに運ばれていたからです。NYから車で一時間くらいの場所にありました。そこの古い家の中で木の人形を見つけました。左の写真の木人形です。お友達のものと似ていますか?
Q:実は今学校の宿題で、こけしの勉強をしているんですが、「どうしてさかんになったのか?」というのが分かりません。よかったら教えて頂けませんか?(HKさん)
A:こけしがどうしては盛んになったかというのは難しい質問ですね。
こけしが東北の温泉場で作られるようになって、湯治客(お百姓さんが疲れをとるために農閑期に2〜3週間温泉で療養する)のお土産として最も盛んに売られたのは明治30〜40年の頃です。それが大正になるとキューピーなどのセルロイドの人形が出てきて急に売れなくなってきました。そして多くの工人の人達は転業して都会に出たり、畑仕事をしたりするようになりました。
ですから一番最初に盛んになったのは明治30〜40年でしょう。いま、観光旅行で温泉地に行っても何かお土産を買って帰るのは何故か。やはり温泉地で身体を休めて楽しいことを沢山経験して、それを家族や職場の人達とも共有したい。そういう気持ちで記念の品を買うのでしょう。湯治の場合は疲れをとって体力を回復したことのお裾分けとして何か自分の村の人に配りたい、そのお土産としてこけしが一番ピッタリしたし、子供達にも喜ばれたのでしょう。
大正以後、農家から湯治に行く人達は段々こけしを買わなくなり、子供達にもあまり喜ばれなくなりました、西洋風の新しいおもちゃの方がずっと魅力的だったのでしょう。そのかわり都会の大人の人達が「これはなかなか良いものだ」と言って集めるようになりました。こけし蒐集の趣味の人が現れたわけです。
そうした趣味が一番盛んになったのは昭和15年頃です。このころはやったのは何故でしょう。このころは戦争の気配が身近になっていく反面、皇紀2,600年などと言って日本そのものを自ら高く評価しようとした時期でもありました。ですから一方で戦争とは最っとも遠い子供のおもちゃに憧憬の念を抱いたと同時に、優れて日本的なものという誇りもかすかにこけしに持っていて、多くの大人がこけし蒐集に夢中になったのでしょう。
しかし、こけしのブームは戦争が本格的になり、戦局が悪化するに連れて下火になりました。
戦後のこけしブームというのは昭和40年頃です。このころは戦後の復興期のさなかで、所得倍増を目指して日本中が工業化に邁進したときでした。
それまでの農村は、茅葺きに土間のある農家が大部分で、裸電球が点った囲炉裏端という光景が至る所にありましたが、昭和30年代から40年代にかけてそれが一変しました。どんな農家に言っても明るい居間になって大きな大きなテレビがでんと置かれているような家に変わっていきました。日本に「ふるさと」が無くなっていく時期でした。
そういう意味で、こけしは日本的な古い世界が消えていく中で、かつての日本の姿を偲ぶかすかな拠り所でもありした。しかも、こけしを作る工人が素晴らしかった。かれらは古い日本の職人の典型であり、理想の姿を残していました。多くの都会の人達が東北にこけし工人を訪ねて、夢中になってこけしを求めて来たのです。
そう言うわけで、こけしが「どうして盛んになる」と言っても色々な時代とその背景があります。
何か参考になれば嬉しいのですが・・・。
Q:こけしの目は、なぜ細いのですか?(AYさん)
A:これは大変面白い質問ですね。
でも何と比べて細いのでしょう。
人間の眼とであれば、人間の眼の細さもあんなものではないでしょうか。
でも他の人形、フランス人形やキューピーと比べると確かに細いですね。
こけしが出来た頃の日本の人形、例えば東北の土人形、花巻,相良、堤などの土人形はみなこけしと同様に細い眼をしています。土人形は歌舞伎などに題材を取った物が多く、こうした人形の表情は浮世絵の表情にも似ています。浮世絵の女性の眼も細いですね。
結局、大きなまん丸な眼が可愛いと思われるようになったのは特に西洋の人形が入ってきてからではないでしょうか。確かではありませんが調べたら面白いかも知れません。
Q:Recently we have been in discussion with an American writer(A.P.) who
is writing a book about Japanese doll collecting especially old dolls.
He already has published one book about Japanese dolls in general. We have
provided information from our collection but he asks the following question
which we have tried to answer but we thought you could provide a much better
answer, since you know a lot more on the subject than we do.
""Question: Why is it that so few, if any, Edo-period or early-Meiji
kokeshi are seen or published? Your oldest group you indicated date from
the Taisho period, some 75 years ago. Are you both aware of any early source
specifically documenting kokeshi, pre-Meiji? At the kokeshi auctions you
spoke of earlier, do you ever see Edo pieces?""
Actually we have never seen a pre-Meiji doll and only one Meiji doll in
the Kamei collection in Sendai. Can you provide any help answering his
question. (I.S-san)
A: I have discussed with you that Kokeshi doll is a symbol of mountain spirits,
which give good harvest to peasants. Peasants gave Kokeshi dolls to their
children. It was also believed children should be on the boundary between
human beings and spirits, and should be good friends of the sprits. When
children grew up, peasants thought Kokeshi dolls should go back to the
mountain as home of spirits. As the most simple way to send Kokeshi to
the mountain, peasants burned them and believed they went back to the mountain
with their smoke.
I have heard such stories a lot from old peoples in Tohoku district. This
is a reason of difficulty to find out old Kokeshi dolls. I have a old kokeshi, which was made at middle Meiji. It was found at old small shop in Hijiori, and it never fell into the
hands of child. It was a reason my old Kokeshi has been survived.
I also confirmed the word of "KOKESHI" in old manuscript, which was written in pre-Meiji. Then it is sure that Kokeshi was made in pre-Meiji, but I have never seen the pre-Meiji Kokeshi in existence.
You have attended the "Kokeshi Kuyousai" in Narugo Kokeshi Festibal,
and you watched that many used Kokeshi dolls were burned ceremonially.
This means Japanese peoples still keep some traditional mind that used
Kokeshi should be sent back to it's home of Mountain with it's smoke.
質問があれば fwih4396@mb.infoweb.ne.jp あるいは mhashi@nifty.com までお寄せ下さい。
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