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肘折風影

肘折の工人達

私が行った頃は、雪の季節、バスは村の上の小学校のところまでしか行かなかった。
バスを降りて滑りそうな細い坂道を村に向かって下ってゆく。

戦前の肘折温泉 この風影が昭和四十年代まで残っていた

折口信夫は「山の湯雑記」で肘折(肱折)を次のように紹介している。

「旅に出る前、私は斎藤茂吉さんに逢った。出羽の温泉の優れた処を教えて下さいと言ったところ、白布の外は肱折だなあと話された。私は、雄勝・院内を越えて、秋田県の鷹の湯に一夜、引き還して新庄から肱折に這入って一晩を泊りに出かけても見た。やっぱり肱折はよかった。新庄からあんなに奥へ這入って行って、ああ言うがっしりした湯の町があろうとは思わなかった。どの家も大きな真言の仏壇を据えて、大黒柱をぴかぴかさせて居ようと謂った処である。湯を呑んだ味は、今まで多く歩いた諸国の温泉の中では、一番旨いと思った。一つは、私の味覚に最叶う炭酸泉の量が多いからであろうと思う。が、其ほかにも、かわったものを含んでいるようである。私は此湯場を中心にした色々な湧き場を歩いて見た。ここは標高はわりに低いから、真夏の今頃よりは、もっと涼風立って、農村の忙しくなった時分に、静かに入湯に来たいものと考える。

  をみなごの立ち居するどし。山の子に よきこと言ひて 人は聞かさず」

肘折に詳しい先人は私にこんな話をしてくれた。

「雪がどんどん積もってゆくと、山間の盆地にある肘折はついにはすっぽり雪の中に埋まってしまう。家々や旅館では、積もった雪の中を蟻の巣のようにトンネルを掘りめぐらせ、その中を通って行き来している。」
「春になって暖かくなると、雪はじょじょに暖かい地面の方から融けてゆく。すると雪のトンネルの天井はだんだん低くなる。スコップでその天井の雪を人が通れるだけ毎日削ってゆく。ある日突然その天井が抜けて、青い空が見える。その時、肘折の人は”ああ春が来た”と思うのだ。」

バスが通り始める時期には、もうそんな雪のトンネルを見ることは難しかったが、豪雪の年、春早く行ったときに、まだ何ヶ所かのトンネルは確かに残っていた。



こけしのほかに肘折の名物といえば、くじら餅、もち米と黒砂糖で作られ、上にのったくるみの歯ざわりとあいまってじつに旨い。
温泉街の奥の、八鍬など二軒の家で作られ売られていた。
このくじら餅屋も冬季は藁で雪囲いをしている。右の写真はくじら餅屋の前で遊ぶ子供と、孫の子守をする老婆。


肘折は木造三階建ての旅館街が残る古い湯治場だった。
夏になり、湯治のシーズンになると、この旅館街の前は朝市でにぎわう。


肘折は極めて交通の便が悪かったから、戦前肘折を訪ねた蒐集家は、橘文策、深沢要など限られた人達だった。戦後になっても他産地との交流はほとんど無く、新型こけしなどの影響も無かった。そこで昭和三十年頃までほとんど戦前と変わらないこけしが作られた。それゆえこけしの世界では肘折の戦前は昭和三十年まで続いたと言われ、特にこけし界が再始動した当初、昭和二十九年ころの肘折こけしは戦後作ではあっても高く評価される。



肘折の工人達

産地風影

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