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南部風影


鉛

昭和四十二年 鉛温泉の下を流れる豊沢川

鉛温泉は花巻温泉郷豊沢川の上流にあって、開湯は約六百年ほど前といわれる。白猿が岩窟から出て桂の木の根元から沸き出ている湯で手足の傷を癒しているのを見つけたのが始まり、十五世紀頃には仮小屋が建てられ、天然風呂として使われるようになった。その後藤井三右エ門が安浄寺住職の助力を得て浴場開設の許可を役司より受け、十八世紀三之助の代になって始めて長屋を建て湯治旅館を開始したと言われている。全戸藤井姓を名乗り、名前と合わせて藤三、藤彦、藤梅、藤友など屋号で呼び合う。
かつては四軒の旅館があったが戦前の火災で全焼、後一軒に集約され藤三がこれを経営している。
木造三層の湯治宿には多くの農民が長逗留し、廊下で煮炊きをする昔ながらの湯治宿の風情が永く残されていた。薄暗い廊下には日用雑貨を売る売店もあり、買い物をする母親のまわりでは子供たちが遊びまわっていた。

昭和四十二年夏 藤三の売店            駄菓子を商う藤彦商店

鉛ではこうした湯治客相手に日常食器や土産物を挽くために木地師の需要があったが、当初は鳴子の工人達が多く来て働いていた。
最初に鉛に来たのは、明治三十六年の岩蔵で、自身木地を挽くだけではなく、当地の藤井幸左衛門に木地挽きの技術を伝承した。
その後、明治三十九年に鈴木庸吉、四十年に大沼甚四郎、小松留三郎、遊佐養右衛門、四十一年に小松五平、伊藤松三郎、高橋万五郎、四十三年に高橋寅蔵、大沼万之丞、秋山忠など次々に鉛に来て木地を挽いた。湯治土産であるから当然こけしも挽いており、古い鳴子のこけしが南部地方でしばしば発見されることになる。藤井梅吉は明治四十年頃から藤井幸左衛門や小松留三郎について木地の修行を始めた。
鉛近在(湯口村下志沢)に生まれた照井音治は、明治三十三年青根の小原直治について木地を学んだ後、明治の終わりに西鉛藤友の職人として働き、大正中期に鉛の藤井梅吉の工房で働いた。梅吉は音治について木地の手直しを受けた。大正昭和とこけしを作ったが、昭和十一年三十九歳の若さで亡くなった。照井音治は、花巻に移っていたが、梅吉がなくなって三年後、昭和十四年に五十六歳で亡くなった。
鉛のこけし作者としては、照井音治や藤井梅吉がすぐに頭に浮かぶが、鉛でこけしを作った工人は鳴子から来た人を含め、数多くいた。


ここに紹介する照井音治九寸六分は、石井真之助氏が愛知県西尾の女学校の校長をしていたとき、東北の校長先生達に「生徒の家に使い古していらなくなったこけしがあれば集めて送って欲しい」とに依頼して集めたものの一つ。明治末年に西鉛に来て間もなくのものであろう、顔描には青根の小原直治の風貌が残っている。ただ頭、胴ともに大きくなり、鳴子風の形態も加わっている。胴と頭ははめ込みになっており、頭はクラクラと揺れる。表情は古風かつ張りがあり、胴はどっしり量感があって見事な作風である。
右の三本は鼓堂コレクションの藤井梅吉、左から昭和八年頃、中央昭和初期、右端が昭和四年ころの作。照井音治風の重ね菊が基本型であるが、中央尺二寸は白胴、南部古型を意識したものか。「こけし辞典」はこの写真を使い、左二本を掲出した。

この音治九寸六分と梅吉白胴尺二寸は、ともに神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」(昭和五十三年)に出陳された。




志戸平の工人   盛岡の工人 

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