南部風影
松田木工所で木地を挽く松田精一(昭和四十二年)
松田精一は明治三十二年生まれ、これは数え年六十九歳の写真
南部の木地業は古く、二戸郡浄法寺周辺で、平安期高倉天皇の時代頃から南部椀の製作を始めたと伝えられる。
浄法寺は天台宗の古刹で、ここで自家用の漆器を作り始めたのが浄法寺漆器の始まりであり、浄法寺御器とも呼ばれていた。後世の浄法寺椀はこの遺制を踏襲したもの。当初は浄法寺周辺で専ら製作されていたが、原木が不足するにおよび、浄法寺川を遡って、荒屋新町、浅沢、赤坂田等で作られた。
盛岡のキナキナ作者として知られた安保一郎の家は非常に古い木地師、元禄年間に美濃より秋田県鹿角郡安保へ移動して木地業を営み、後に浄法寺の荒屋地区に移った。享保年間に南部藩より二人扶持を与えられてお抱え木地師となり、盛岡に移住した。
安保の家系は、弥一郎−弥市−弥助−弥七−弥吉−弥市郎−弥次郎−一郎まで遡れる。
南部の主要なキナキナ作者は全てがこの安保家の流れを汲む。
安保弥市郎の名が見える木地寸法帳(松田精一蔵、昭和四十四年)
松田精一の父清次郎は安保弥市郎、弥次郎について木地を学んだ。母ヒサと弥次郎の妻が姉妹だった縁による。煤孫茂吉は、鎌田千代吉に木地を学んだが(参考 閑話(18))、旋盤式の一人挽きは清次郎のもとで開発した。胴下のくびれるキナキナは清次郎からの伝承であろう。宮古の坂下権太郎や盛岡寺沢政吉も清次郎の弟子である。一方、弥次郎は一郎が四歳のときに亡くなったので、一郎は木地を煤孫茂吉に学んだ。清次郎は三十一歳で早世したので、弟徳太郎も煤孫茂吉について学んだ。清次郎長男精一はこの叔父徳太郎から技術を伝承している。松田正一は徳太郎の長男である。
坂下権太郎は深沢要が訪れて、こけしを復活させた。一方、寺沢政吉は明治十八年生まれ、十四歳より清次郎につき、十年ほど木地を挽いたらしい。昭和四十二年四月に亡くなったが、誰も追求する人はいなかった。作品は不詳である。
なお、南部の一人挽きは、清次郎と茂吉が始めたものらしい。明治二十四年、茂吉が清次郎に弟子入りしたとき、その轆轤を作るのに西洋旋盤師のところに行った。盛岡鉄道局ではないかという。そこで鉄工旋盤の一人挽きを見て、二人で工夫をして足踏みを作ったのだという。清次郎、茂吉の下に多くの弟子が集まったのもこの足踏みがひとつの吸引力だったに違いない。
このようにして、もともとは安保のキナキナが盛岡、花巻等で広く作られるようになったのである。
下図に主なキナキナ作者の作品を紹介する。
古い蒐集家のこけし棚で「盛岡 吉田木工所」と書き入れのあるキナキナを散見することがある。首と胴裾にカンナ溝を入れた面白い作であるがこの作者は不明である。
川徳百貨店の裏、穀町にあった松田木工所
「穀町の木地屋」と呼ばれていた
昭和四十四年 数え年七十一歳の松田精一
松田家は元来常陸屋と言う商家で天保年間の初代仁兵衛以来、清次郎は四代目、精一は五代目にあたる。
先に述べたように、清次郎と安保家との姻戚関係が機縁となって、清次郎の代から木地業となった。
精一は徳太郎に就いて木地挽きを学び、兵役を挟んで以後ずっと木地業を続けた。
キナキナ作者として知られるようになったのは戦後であるが、
車のロクロ、柄杓、根付、馬の尻ガイ玉など需要に応えて木地日常雑器を長く作り続けた。
安保一郎もこの穀町の作業場で働いたので、「穀町の木地屋」として盛岡ではよく知られていた。
盛岡ではどの家のおもちゃ箱にもキナキナの一本や二本は必ず有った
といわれているから、安保や松田は長くその中心作者であったに違いない。
松田家は代々盛岡北山法華寺の檀家であった。
私の曽祖父は法華寺の住職(日海)であったので、祖父の代の人たちにも松田の家を知るもの多く、
祖母の妹は精一の初等科(小学校)同級であって、「穀町の木地屋」のことをよく話していた。
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