木地山風影(2)
左から、長男宏一、弟留三、久太郎、妻ミヨ、孫利亮、嫁りよ。
昭和五十年八月、平凡社カラー新書の取材のため
カメラマン秋山忠右・佐藤晴雄両氏、こけしの会の植木昭夫さんと
奥羽本線の寝台特急に乗って秋田湯沢に直行、木地山に向かった。
これは久太郎一家の写真を両カメラマンが撮影しているところを右横からスナップしたもの。
このときのカメラマンの写真はカラー新書「こけしの旅」P.28に掲載されている。
角度が違うが見比べて見ると面白い。
昭和九年頃の久太郎作
小椋久四郎は昭和八年に亡くなったが、久四郎宛の注文は続いた。
昭和十二年「東北の玩具」で久太郎が紹介され、橘氏の「こけしと作者」で正式に取り上げられるまで
蒐集家は送られてきた久太郎を久四郎として受け取っていた。
これは久四郎が亡くなって間もないころの作といわれている。
久四郎と久太郎の作風の違いとその鑑別が議論されたのは、
ようやく渡邊鴻の機関紙「鴻」第六号(昭和十六年)によってであった。