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作並風影


作並の風影

 山形風影

作並こけし発祥の調査

作並の木地業とこけしの系譜については、十系統中最後まで不明の部分が多く残った。ほとんどの産地の木地系譜が、信頼できる資料に基づいてかなり明確に解明出来た「こけし辞典」の後でさえ、作並だけは、その祖といわれる南條徳右衛門、岩松直助についてはあいまいで、本当に木地を挽いたのか、こけしを作ったのかについても確証は無く、依然としてこけし系統発生の最大の謎、仙台高橋胞吉の系譜についても不明のままに手がかりも完全に途絶えたと考えられていた。

作並系譜の割り切れなさはに対する無念は「こけし辞典」以後も続き、その追求は継続された。作並の墓碑銘調査、戸籍、興源寺過去帳の調査などをもとに、私は「岩松直助と作並木地業」という考察を大阪の「こけし山河・一七号」に載せたし、昭和四十六年九月「こけし辞典」脱稿直後に鹿間時夫氏と二人で、作並はじめその近傍の関係箇所、定義、滝之上、芋沢、愛子などを手がかりを求めてさらに歩き回ったりした。
特に鹿間氏は、山形、作並、仙台を包括する作並系の提唱者でもあり、「作並に古くはこけしはなかった。山形の小林一家から平賀謙蔵が習ってから始めて生まれた」などという当時の新説には大変憤慨していた。さらに「仙台の胞吉は、一代の創作で、作並とは関係がない」などとも言われ始めていたので、「こけし辞典」の監修者としても、古生物学の系統分類の権威としても、自説を裏付ける史料発掘には執念を燃やさざるを得なかったのである。
鹿間氏と二人の作並調査の記録は「木の花・第四、五、六、七号」に「仙山紀行」として本文鹿間氏、註橋本でまとめられている。この仙山旅行では作並木地業と関係のありそうな家を次々に訪ね、その後裔と見られる人々に聞き書きを取ったが、相手にとって見知らぬ人からの性急な質問に対して短時間で十分な応答があるはずもなく、ほとんど実のある成果はなかったのである。唯一、芋沢の木地師今野新四郎の六男今野多利之助に会うことが出来て、父新四郎が確かに木地を挽いたこと、さらに玩具も作ったことを確認し、遺品の染料箱を見せてもらうことが出来た。この染料箱には茶碗ほどの容器が二つ入っていて、それぞれ赤と青(緑)の染料がその底に残っていた。

もう新しい史料は出るはずがないと思われていた作並こけし発祥に関して、突然大きな進展が見られたのが仙台の高橋五郎氏による「岩松直助文書」発見の報告である。これは「こけし手帖・二五三号」(昭和五十七年四月)に最初に紹介された。
この「岩松直助文書」には、岩松直助の師匠南條徳右衛門と、直助の弟子でこの文書を受けるものとして小松藤右衛門の名があった。しかも、木地寸法帳のなかにはこけしの寸法もあり、岩松直助がこけしを作ったことは確実となった。
さらに高橋五郎氏は周到な聞き書きを続けた結果に考察を加えて、翌昭和五十八年に「仙台周辺のこけし」を刊行、さらに昭和六十一年刊行の「高橋胞吉-人とこけし-」ではついに折立の庄司惣五郎と胞吉一家との関係まで突き止めることが出来て、これによって作並系こけし工人の系譜はほぼ完全に解明された。
そしてこれら一連の解明の契機となった「岩松直助文書」はあの今野多利之助の神棚の上にあったのである。鹿間教授と私は多利之助の玄関に立って正面の神棚も確かに見ている。目の前三メートルのところまで行きながら、無為のまま引き返してきたのであった。高橋五郎氏は数度に及び多利之助を訪問し、その熱意がついに神棚の箱を開けさせたのだった。それは鹿間氏と私が多利之助を訪問したちょうど十年後の昭和五十六年十二月のことだった。

高橋五郎氏の成果を踏まえて、作並の木地の系譜をまとめると下の図のようになる。この図は模式的に示したもの、左右が主に仙山一帯の位置関係、前後が年代(手前が新しい)を相対的に示しているが、相互の関係の方を重視しているので必ずしも厳密ではない。


高橋五郎氏の調査考察を踏まえて、作並の木地の系譜を振り返ると次のようになる。

南條徳右衛門が祖であり、その弟子に岩松直助(明治七年五月二十二日没四十七歳)と山形から来た小林倉治(大正七年十二月二十三日没七十九歳)がいる、ただし倉治は実質的に兄弟子岩松直助に木地を学んだ。倉治はその後山形に帰り、山形で木地を続け弟子も養成した。
愛子の小松藤右衛門(戸籍名:今朝右衛門 明治二十二年四月一日没五十二歳)は岩松直助の弟子となり、万延元年二十三歳で愛子に戻って独立した。独立するに当り「万挽物控帳」を直助より受けたが、これが高橋五郎氏の発見になる「岩松直助文書」である。
小松藤右衛門の弟の惣五郎(明治三十五年十二月九日没四十九歳)は兄に就いて木地を学んだが、明治七年に折立の庄司東左衛門二女くめと結婚して婿養子となり、折立で木地を開業した。このとき、仙台の高橋亀吉・胞吉父子、作並の槻田與左衛門が手伝いに来て、折立で木地を挽いたという。惣五郎の兄養蔵も小松家から庄司家へ養子に来ていたが、明治四十二年二月にこの養蔵が六十歳で亡くなったときには仙台八幡町の木地屋高橋胞吉が葬儀に参列したという。
芋沢村大竹原の今野新四郎(大正十三年十二月五日没六十六歳)は、生来足が悪かったため、足が不自由でも仕事の出来る木地業に就くべく折立の庄司惣五郎の弟子となった。こけしも作って作並の温泉宿岩松と大沢村石垣長右衛門に卸していた。
高橋五郎氏発見の「岩松直助文書」は、直助から小松藤右衛門へ、藤右衛門から弟の惣五郎へ、惣五郎から弟子の新四郎へと伝えられたものであった。


作並一本杉の墓地
岩松直助(長安良道信士 明治七甲年五月二十二日四十七歳)の墓については従来から知られていたが
その横にあるのが南條徳右衛門(忠翁夕義信士 慶応元乙年十月八日六十五歳)の墓であることは
高橋五郎氏によってようやく読み解かれた。

作並こけしの発生については「こけし山河・一七号」で議論したように、湯主の岩松が遠刈田のこけしを取り寄せて作並で売ったのが始まりであろう。やがて岩松地内に落ち着いた木地師南條徳右衛門に作並で直接遠刈田風のこけしを挽かせるようになったのだと思われる。
南條徳右衛門もその弟子岩松直助や倉治も他所から作並へやってきて「旅館岩松の地内」に落ち着いてこけしを作り始めた工人であり、深沢要聞書ではこれを「岩松の抱木地師」、高橋五郎氏は「岩松を草鞋脱ぎ場とした工人」と呼んでいる。
このように作並のこけしは湯主岩松の意向が強くかかわって発生した。徳右衛門が世を去り、倉治が山形へ帰り、直助とその子供たちが死んで、作並のこけしが絶えそうになったときには、湯主岩松は槻田與左衛門に木地を挽かせて作並こけしを守り、與左衛門が青根に去った後は、今野新四郎のこけしを取り寄せてその継続をはかり、やがて平賀謙蔵を山形に送って倉吉から木地を学ばせている。さらに岩松は作並でこけしを作る平賀謙蔵に対して、山形風ではなく古い作並の型を作るように注文をつけたとも言う。このように湯主の岩松は作並こけしの発生に加えて、その維持継承にも積極的にかかわっているのである。
岩松直助の弟子小松藤右衛門からは、弟惣五郎、その影響で高橋胞吉、惣五郎の弟子今野新四郎へとこけしも伝えられ、定義如来への参拝客で賑わう定義街道沿いで盛んに売られたようである。仙台から定義街道に出るところに大崎八幡があり、この境内で胞吉がこけしを売ったことはよく知られている。
一方、山形へは倉治によってこけしが伝わり、小林一家とその弟子たちによって大きく開花することになる。

作並に源流があり、それが仙台へ向かって高橋胞吉に及び、山形に流れて小林一家となる。この大きなひとつのまとまりを想定した作並系という呼称は鹿間時夫氏の学問的直覚によるものであったが、鹿間氏の生前には誰もがそれを証明することができなかった。
「一代の創作である胞吉と山形のこけしに関係があるなんてぇのはたわごとだ」と喝破するものさえいた。鹿間時夫氏は思いを残して昭和五十三年十二月十二日に亡くなった。
「岩松直助文書」の発見(昭和五十六年)とそれ以降の研究成果(主として高橋五郎氏の業績)を最も喜んだのは鹿間時夫氏だったはずである。もし生きていたら鹿間さんは必ず私に電話をかけてきて「キミ、キミ、キミ、凄いですね!やりましたね!僕の言ったとおりだったでしょ!」と一時間以上は話し続けていたに違いない。     



高橋胞吉

産地風影

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