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作並風影


作並温泉

作並こけし発祥の調査

明治十五年刊 宮城県温泉小誌 有田正誠編

作並温泉は養老五年(七二一年)に行基が発見した、あるいは文治元年(一一八九年)に平泉征討の折源頼朝の軍が発見したという二説があるが確かではない。宝暦十一年(一七六一年)の『奥州仙台領遠見記』には、湯渡戸に石で囲い置いたところがあって入湯する者があるという記述がある。寛政八年(一七九六年)に、岩松喜惣治が仙台藩の許しを得て開湯に着手した。現在の岩松旅館の前身である。旅館岩松当主は代々喜惣治を名乗り、江戸末期にはこの喜惣治が遠刈田の木地玩具などを取り寄せて温泉土産に売り出すようになった。やがて喜惣治の家に草鞋を脱いだ職人に木地を挽かせ、この地でこけしも作るようになった。南條徳右衛門、岩松直助・直治一家などが主な作者である。この喜惣治は若くしてなくなり、未亡人のよふが後を継いだが、子がなかったのでよふの弟亥之助を養子として家業を守った。亥之助は南條、岩松が亡き後、作並のこけしを維持すべく、槻田與左衛門にこけしを作らせ、また今野新四郎のこけしを取り寄せて湯治土産として盛んに販売した。
さらに自分の岩松旅館で働いていた平賀太五郎の長男謙蔵を山形小林倉吉の元に送って木地を学ばせ、年期明して作並で独立後は謙蔵に作並の作風を守るこけしを作らせた。このように岩松喜惣治・亥之助は作並こけしの発生と維持継承において大きな影響力があった。

岩松旅館は広瀬川に沿って建ち、河原に沿って並ぶ浴槽へ、客室から長い長い階段を下る。この階段の下に四つの岩風呂「新湯」「河原の湯」「滝の湯」「鷹の湯」がある。

平賀謙蔵は明治三十四年山形小林倉吉に就いて木地を学んだ。明治四十年年期明け、兵役、さらに山形でのお礼奉公を終えて、倉吉の妹きよを嫁にもらって明治四十五年作並に戻った。独立開業以後、昭和十二年中風に倒れるまで一貫して木地業を続け、こけしも作った。岩松亥之助からは山形風のこけしではなく作並古来の型を作るように勧められた。平賀の独特の胴花模様はその古来の様式を取り入れたものといわれている。

     

右の鈴木鼓堂旧蔵は大正十四年に鼓堂さんが入手したもの
大正期のものとして小寸ながらその存在感は抜群
左の石井真之助旧蔵品は昭和六年頃



高橋胞吉

山形風影

産地風影

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