フォト・ギャラリー

仙台風影


 
作並こけし発祥の調査

仙台

高橋胞吉は「こけし這子の話」で紹介される以前から、天江富弥氏が開いていた仙台の小芥子洞で売られていたが、この頃既に体調思わしくなく、製作数は少なかった。「こけし這子の話」出版頃には入手困難な工人の一人であった。昭和五年長男を亡くしてからは遺族を養うため無理をしてこけし製作を続けたから、晩年の作品はある程度残されているが、人気のわりには数が少なく、いつの時代も蒐集家羨望のこけしの一つであった。大正期のロマンを漂わせる作風は、こけし界の竹久夢二と言われたこともある。

右の写真は昭和六年橘文策氏が訪問して撮影したもの。長男を失って気落ちしたその表情は痛々しい。

今日では胞吉のこけしは作並の古こけしの流れを汲むことはほぼ確認されている(作並こけし発祥の調査参照)が、以前は「胞吉一代の創作、しかも夢二ファンの都会人に勧められて作り始めた。」と言う説さえあった。胞吉はまだ元気な頃、木地の腕には自信があり、天江氏が他のこけしを見せると「そんなものは俺にも作れる」と直ちにまねて作ってみせたと言う話が伝わっているので、こうした説も生まれたのかもしれない。「天江氏自身が夢二ファンだった」と言うことが強調されたこともあった。

私はこの説を聞いて、鹿間氏に伝えたところ、彼はビックリして名古屋こけし会誌「木でこ」に橋本説として書いたが、これは私の説ではない。しかし、これが後に私と鹿間氏の二人を仙山紀行の旅にうながす契機となった。胞吉の源流をどうしても確かめたかったからである。

今では、高橋五郎氏の調査や、清水清風旧蔵の明治期の胞吉(花筐これくしょん)が見つかったので、胞吉が古い作並の流れを汲むこけしであることを疑うものはいない。花筐これくしょんの胞吉は小寸ながら筆勢鋭く、切れのある表情でまさに時代の香りを存分に秘めるものであった。

高橋胞吉は父親亀吉の代からの木地屋。仙台という都会にあって新しい技術にも敏感、旋盤技術にヒントを得て独自にダライバンによる一人挽きを開発していた。
小田原で先端的技術を身につけていた田代寅之助が仙台を訪れた時、胞吉が既にダライバンの一人挽きを行なっていたことが知られている。田代寅之助は仙台には自分が教えるべき技術も仕事もないことを悟り、胞吉に勧められて、明治十八年遠刈田・青根に行って足踏みの一人挽きを伝えた。これが新しいこけしの系統分化の引き金となった。

胞吉が生前どこでこけしを売っていたのかはっきりしない。小正月のどんど焼きの晩に参詣客の多く集まる仙台大崎八幡の参道に筵を引き、その上にこけしを並べて売ったとも言われる。天江富弥氏が大崎八幡で売ることを勧めたという話もある。おそらく、大崎八幡参道、定義如来への参拝道、作並温泉への道、多くの人の往来で賑わった仙台八幡町界隈はお土産としてこけしを並べるには十分意味のある場所であったと思う。

ここに載せたこけしは、昭和四年頃、まだ家庭の不幸にあう前の、表情がしっかりしている時期のもの。肩の段は山形の相こけしとも通じて古い作並の形態を残している。やや甘く愁いを帯びたまなざしは童女のそれでありながら、こけしそのものの行く末をじっと見つめているようで限りなくいとおしい。



作並の風影 山形風影

産地風影

印
ホームページへ