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津軽風影

盛 秀太郎


津軽のロクロは床に置くタイプ。タバコをくわえて彩色をする盛秀太郎(昭和四十三年八月)


温湯にいつの時代からこけしがあったかは定かでない。津軽長おぼこという古い型があり、盛秀太郎の父元吉の代に衰微して残っていないと言われるが、元吉はほとんど養蚕業を営み、はたして長おぼこを作ったのかどうかも不明である。明治二十八年生まれの秀太郎は、絵心があり、ねぶたの絵を参考に、こけしを作り始めた。現存しているのは大正時代以後のこけしである。

盛秀太郎は、極めて誠実で、私が葉書でこけしを注文したときには、数本のこけしのほかに達磨など木地玩具もともに送ってくれて、几帳面な楷書毛筆の送り状が入っていた。達筆で劇場の看板書きまでを頼まれていたと言う話もある。家族運には必ずしも恵まれず、子供は八人いたが、四人は早くなくなった。残った四人のうち一人は事故で腕を失い、別の一人は病で失明したという。胴にだるまを描くこけしをよく作ったが、これは不遇な中での祈りの気持ちからだとも言われている。
昭和六十一年九十二歳で亡くなった。
右の写真は、昭和四十三年弟子奥瀬鉄則と盛秀宅の前で写したもの。奥瀬は盛秀の長男真一妻の弟に当たる。盛秀の後継者として人気が高かったが、平成四年五十一歳の若さで亡くなった。

左二本は、現存する盛秀のごく初期のもの。最初に盛秀を紹介した「こけし這子の話」に掲載されたものとほぼ同時期であり、大正末年のものと思われる。土俗臭がたっぷり残っていて盛秀のもっとも魅力ある時代のこけし。鹿間氏が鯨目と呼んだ湾曲のある目の描法はこの時期までで、昭和五〜七年以後は上瞼と眼点のみを描く一側目になる。==>昭和五年頃の盛秀
戦後は作風は甘くなって、目は黒く塗りつぶし、長くまつげの垂れた変則的なこけしに変わった。しかし、ねぶたこけしの作家として一般からは生涯高い人気を得ていた。
昭和四十七年三月東京新宿の小田急百貨店で「盛秀太郎喜寿記念展」が開催された。このときには在京の蒐集家のコレクションの中から主だったものを集めて陳列し、その五十年のこけしの変遷を眺めることが出来た。かなり大掛かりな展示で、会場には青森から出ている参議院議員や黒石市長からの祝花が並んでいた。
近作二十五本の展示即売もあり、これは抽選ということになったが、それを知らぬマニアが百貨店の四方のエレベーターや階段から会場に殺到したらしい。
あまりの熱狂振りは、当時でも異様で、芸術新潮の編集長山崎省三さんに一ページ分の原稿を依頼され、それが芸術新潮七月号に掲載されたほどだった。
その時、展示された在京コレクターのこけしは資料的にも貴重ということで、すべて私が写真に撮って、一式を出品者に配った。ここで紹介した西田、鹿間両氏のこけし写真はその時のもので、展示された最も古い二本であった。
芸術新潮の山崎省三さんとは長いお付き合いで、時々ご本も送っていただいた。さらりとしたお付き合いであったが、思い出したように交わす手紙や葉書に、気持ちの波長が、心の奥のほうで共鳴するような不思議なお付き合いだった。最後に贈っていただいたご本「回想の芸術家達」(冬花社)は、山崎さんが芸術新潮のお仕事を通していろいろな芸術家の創造、製作の心の現場に立ち会った思い出であり、これを読むと山崎さんのすべてはここから始まってここに帰るのだと納得できる。
本年(平成十八年)、亡くなったというお知らせを伺ったときには、一つの世界を共有していた人を失ったという思いにかられて、無性に寂しかった。

村井福太郎
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