津軽風影
昭和十五年頃の大鰐温泉
床置きのロクロに向かって仕事をする村井福太郎(昭和四十三年八月)
同じ横挽きでも津軽では向かって右にロクロの爪が来て、左から挽く。
村井福太郎は明治十五年三月十五日南津軽郡蔵館に生まれた(蔵館は昭和二十九年に大鰐町に編入)。村井家は蔵館の古い居木地師の家だといわれている。主に津軽塗の塗下を作っていたようである。明治二十七年十三歳より父伊三郎に就いて木地を学んだ。明治三十年よりこけしを挽いたというが、そのこけしがいかなるものかは不明。明治四十一年に鳴子の大沼岩蔵が大鰐を訪れ、以後秋山耕作、大沼熊治郎、甚五郎、鈴木庸吉など何人かの鳴子工人が大鰐で働いた。秋山の滞在は大正二年から十二年まで約十年間でもっとも長い。鳴子の作者が大鰐にどのような影響を与えたか詳しく議論はされていないが、島津や三上のこけし形態などに幾分の影響はあるかもしれない。
現存する村井福太郎のこけしは昭和七年頃蒐集家の勧めにより作り始めて以後のもの。本人は描彩せず、他の描彩者に依頼していた。よく知られているのはねぶた絵師の小山内清晴(大鰐駅前正直屋主人)であるが、清晴は昭和十年頃に亡くなったので描彩した期間は三年足らずである。以後は長谷川辰雄や息子の村井操が描いていたようである。
昭和四十三年に私が大鰐を訪れたときには、村井福太郎八十七歳、依然矍鑠として島津木工所の床ロクロに向かっていた。私のために六寸を挽いてくれて、息子の操が描彩をしてくれた。このあと、福太郎は写真にあるように杖をつきながら私を連れて、「津軽の大日様」として知られる大円寺に案内してくれた。
大円寺の本尊は実は阿弥陀仏で、鎌倉初期のもの、古来「大阿弥陀仏」があったので「おおあみだ」、それが「おおあみ」、「おおわに」になったとも言われている。
福太郎はこの翌年、昭和四十四年四月に八十八歳でなくなった。四十四年にはもうロクロに向かわなかったと言うから、この写真は本当に最後に近い姿であり、私はかろうじて縁が繋がってその温かい人柄に接することが出来た。
ここに紹介する村井福太郎のこけし八寸三分は横山五郎氏旧蔵で、小山内清晴の描彩、昭和七年ころの作品である。
所蔵者横山五郎氏は新宿三越裏にあった有名な名曲喫茶「風月堂」の経営者。風月堂は戦後洋菓子店として出発したが、まもなく喫茶部を開設、横山氏所蔵のクラシックレコードをこの店で聞かせたので知られるようになった。昭和三十年代後半、芸術家気取りの人たちの溜まり場になり、「日本のグリニッジ・ヴィレッジ」とアメリカのガイド・ブックに紹介されて、それを契機にバックにTシャツの外国人ヒッピーたちがしきりに集まるようになった。
横山氏は昭和三、四十年代に盛んにこけしを集めた。何回か桜上水のお宅に伺って、こけしの話をしたり、コレクションを拝見したりした。きらりと光るものがいくつかあって、蒐集家の好みが見える好ましいコレクションであった。特に金井虹二入札会で横山氏が落札した佐藤文六はいつ見ても良いこけしだった。よくご夫妻連れ立って車でこけし産地を訪問することがあった。私も及位から木地山までご夫妻の車に便乗させていただいたことがある。木地山では一緒に一泊し、ともに湯沢の酒を楽しんだ。
当時、風月堂には新左翼、アングラ劇団の俳優、べ平連なども出入りして騒がれていたが、横山さんご自身は温厚で静かな方、奥様は元気よく気持ちのよい方だった。横山氏は平成十年八十二歳で亡くなった。