こけし蒐集家という人達


人形玩具蒐集の人々

それではこけし蒐集家はどうかと言うと、やはり集古会の流れ、そしてそれと連携していた竹馬会、その後の東京の大供会、関西の婢子会のなかで人形や玩具類を集めていた人たちが、最初にこけしを蒐集の対象としたようだ。集古会では清水晴風や林若樹、淡島寒月、山中共古などが中心で、雛を中心に集めた西沢仙湖なども人形の一環としてこけしに手を出している。
斎藤昌三はこけし蒐集の始まりの消息に関して、「この玩具趣味を今日のように一般化さした裏面の貢献者は、清水晴風や淡島寒月翁等の蒐集から始まったが、ヒマにあかせて各地を行脚したのは、明治末期の山三不二(佐野健吉)や玩愚洞可山人、橋田素山等で、次で外神田に藤木老の専門玩具店の出現となり、三越の武田真吉氏を中心に大供会が組織され、機関紙の発行から百貨店の展観と発展したのが、漸次全国的に趣味家を抬頭させた遠因となって、今日に至ったものであろう。」と記している。
斎藤昌三は加山道之助(可山)と趣味誌「おいら」(大正九年)を発刊、三田平凡寺とも親交があったが、あまりに遊び中心の三田のやり方について行けず、後に離れた。古書学、蒐集家、発禁本研究などで「書痴」と呼ばれた人物。震災被災後雑誌「いもづる」を刊行、この「いもづる」仲間に淡島寒月、加山道之助、田中野孤禅などがいた。
淡島寒月は、家業は軽焼きの淡島屋、本名は淡島寶受郎。父は日本画の淡島椿岳。住居の梵雲庵に集められた古物、資料は関東大震災で焼失した。
玩愚洞可山こと加山道之助は関内の真砂町の質屋、俳句や郷土玩具・開港史料収集を趣味として、横浜史談会や尚趣会などを組織した、可山は号である。足で歩いて玩具を集めるのが趣味だった。隠居した後で横浜市の市史編纂主任にされた。横浜の生糸商原合名会社に勤めていた斎藤昌三とは親交があった。
橋田素山は本名繁彦、日本橋の生まれで大正十年に没した。趣味に生きた人で可山とも親しく、土俗玩具の先駆者のひとり。著書に納札関係の文献史「千社万別」がある。
三田平凡寺は東京芝の富裕な材木商の息子で、同好の士を集めて「我楽他宗」を主宰した。その会員はそれぞれ山号寺号をつけて呼び合い、珍玩奇玩を集めては銘々披露し合ったり、様々な趣向をこらした集まりを開いたりして楽しんでいた。のちに陸奥のこけしの孔版画を担当した板祐生はこの「我楽他宗」の仲間であった。
佐野健吉は品川新宿の山三駿河屋呉服店主、明治三十年代から大正時代にかけてこけしを蒐集、少量高値で趣味人に頒けた。趣味多く、冨士講の世話人(先達)をしたり、千社札を貼り歩いたりもしていたらしい。人類学者のフレデリック・スタール(納札の研究で有名、「お札博士」と言われた)は佐野健吉の案内で,九十九豊勝を通訳として、千社札の蒐集をしたという。隠居後は、日本橋の西川布団店の裏に住んで、客には菓子折りに並べて入れたこけしや、土俗玩具を一回に一箱づつ見せて売った。二間ほどの平屋の奥の天袋には、こうした菓子折りや菓子箱がたくさん積み重ねられていたという。
この山三の売り方に、「売り惜しみや値を吊り上げる商魂」を感じる人もいるが、これは昔の呉服店の「座売り」の形態をとったにすぎないのだろう。「座売り」は客が欲しい物を言うと、小僧に命じて奥の蔵から、その客が気に入りそうな物だけを持ってこさせて選ばせるという売り方である。百貨店や勧工場が出来るまでは、この売り方が商家では主流だった。
山三が売ったこけしには胴背に山三と焼印の入れてあるものが多い。
藤木老というのは藤木節斎のこと、明治十五年横浜で最初にゴム印を作った印章業者。大正年間に神田万世橋畔〈花房町〉に「藤木美術店」を開いて郷土玩具を扱った。「三軒間口の土間いっぱいに各地から集めた玩具が山積みされ、棚ざらしでちょっと触っても手が真っ黒になるようだった。看板にはたしか大供玩具と書いてあったような気がする。」と有坂与太郎は語っている。値段は現地の約五倍ほどで売られていたという。
大供会は明治四十二年、久留島武彦、西沢仙湖、林若樹、広瀬辰五郎らの人形愛好家が中心になって結成され、会員持ち寄りの「人形一品会」という展覧会(明治四十四年から大正八年まで八回)を開催し、大正七年からは機関紙「大供」の発行も行った。活動メンバーの多くは集古会と重複しており、「大供」刊行前は「集古会誌」に「大供会談話」として会の記録を載せていた。この大供会には佐野健吉、古いこけしを扱ったことで知られる三五屋・松下正影も顔を出していた。
なお、昭和三年に名古屋でも浜島静波が中心となった同様の会が出来、同名の「大供」という会誌を発行した。
関西では神戸婢子会が大正十三年から十五年にかけて活動した、郷土玩具の同好会である。同人は友野祐三郎、筒井秀雄、黒田源次、尾崎清次、西原豊であった。大正十三年十二月に「日本土俗玩具集」第一号を出した。筒井秀雄は、大阪日本橋南詰の郷玩店「筒井」の店主である。
大正十四年二月には有坂与太郎の「おしゃぶり・東北編」が出て、こけし三本が写真紹介された。

こけし蒐集の人々

集古会の中でのこけしの蒐集活動は、郷土玩具、古代玩具の一部としての蒐集であったが、こけしを中心とした蒐集家が現れるのは大正中期であり、天江富弥を中心とする仙台の人たちであった。活動の中心は天江富弥と三原良吉であり、大正十年ころには蒐集家の集まりとして「仙台小芥子会」も出来た。会員が自分の集めたものを持ち寄って、談論を楽しんだり交換したりする集まりだった。大正十三年には郷玩店「小芥子洞」を天江富弥が開業、「仙台小芥子会」の面々が集まる社交場の感を呈していたらしい。昭和三年一月には天江富弥により最初のこけし専門書「こけし這子の話」が出版される。
天江富弥は、大崎八幡宮の御神酒酒屋として文化元年創業した造り酒屋の息子、明治に入って皇太子(のちの大正天皇)が仙台訪問の折、ここの酒を賞味されたことから「天賞」の銘柄が出来た。こけし蒐集の動機は、大正六年遊学中の東京須田町の趣味店「朱雀苑」で一本のこけしを見たことによると書いている。自分の故郷のこけしが故郷を離れた東京で見て美しく新鮮だったこと、一方で故郷ではこけしはブリキやセルロイドの新興玩具の流入によって打撃を受け、その美しいものが確実に衰退に向かっていたことなどが熱心な蒐集に向かわせた。そしてその活動には、仙台の知識人たちも共感した。三原良吉、中井淳、木村有香、立川武雄などが「小芥子洞」の常連になった。童画家の武井武雄も「小芥子洞」へこけしの注文をしていた。
三原良吉は明治三十年生まれ、早稲田を出て河北新報に入り、論説委員、出版局長を務めた。仙台郷土研究会の結成に加わり、宮城県史、仙台市史の編纂に関わった。東北温泉風土記に「コケスンボコ雑考」を書いている。
中井淳は、明治三十六年生まれ、一高を出て東北帝国大学文学部卒業、法学士。昭和四年から昭和十三年まで東北帝国大学に勤務、のち台北帝国大学教授に移った。昭和二年学生のころからこけしの収集を始めた。外人の教師がいいこけしを系統的に集めているのを見て、「これはいかん、浮世絵のように皆外国に持っていかれる」と思ったのが始まりらしい。中井が借りて仲間と共同で住んだ向山越路六軒町の共同住居をラッコ山塞という。私の父も学生時代に、この山塞に立ち寄ったことがあり、床の間にぎっしり並んでいたこけしを見たと言っていた。台北行きに際してこけしは高久田脩司の三春の家に移った。現在のラッココレクションは目録400番までが中井の蒐集、401番以降が高久田の蒐集である。
木村有香は明治三十三年生まれ、ヤナギ科の分類を完成させた植物学者。東京帝国大学卒業後、東北帝国大学助教授、教授をへて初代東北大学植物園長となった。河北新報に「ポーズくずして」というインタビュー欄があったが、昭和二十七年八月二十日付では木村有香が取り上げられており、そこで「昭和三年仙台に来てちょうどアサヒグラフに仙台の郷土がん具としてこけしがのっていたがそれに非常な驚きを感じたのがやみつきで−その頃三原良吉さんや天江富弥さんが文化横丁でこけし店をやっていて、またこけし会を作り郷土の人形の展覧会をやっていた...〈中略)...ただ集めるだけでなく学問的であって、私なんかいろいろ説明してもらい得るところがありましたね」と語っていた。昭和三年であるから「小芥子洞」の最後のころの客であったわけだ。
武井武雄は長野県平野村の裕福な地主の子として明治二十七年に生まれる。東京美術学校西洋画科卒業後、東京社の児童雑誌「コドモノクニ」のタイトル表紙デザインを担当し、その後多くの児童書を刊行した。池袋にあった自分の家を「おもちゃの小屋・蛍の塔」と称して、玩具などを多く集めたが、こけし蒐集には特に力を注いだ。昭和五年に出版した「日本郷土玩具・東の部」では多くのこけしとその作者を紹介し、「うなゐの友」と並んで、昭和初期のこけし蒐集家のバイブルといわれた。「日本郷土玩具」の序文では、こけしの部分の執筆にあたって天江富弥からの助力が多かったことを記し感謝の言葉を添えている。
郷玩店「小芥子洞」は共同主宰者的な位置にいた三原良吉が河北新報社へ入社して離れ、天江富弥も東京進出の計画が起こって店をたたむことになり、昭和三年残ったこけしごと日下こうに譲られ桜井玩具店として継続する。
天江富弥は結婚して上京し、昭和五年末広町に天賞の卸問屋を開業、また昭和八年には上野ガード下に宣伝酒寮勘兵衛を開いた。この店の片隅にこけし棚を作って飾ったが、翌年銀座店を開業するとこけしはその二階に移された。やがてこの銀座店にこけし愛好家が自然に集るようになった。天江、川口貫一郎が中心となって、その集まりを母体として東京こけし会が生まれた。
東京こけし会の発起人として名を連ねているのは、天江富弥、川口貫一郎、武井武雄、稲垣武雄、加賀山昇次、牧野玩太郎、田中政秋、斎藤栄、浅沼広文、森俊守、秀島孜、山田猷人、西田峯吉、石井康策、岡村堅、深沢要、遠藤武、森卯喜知、加藤滋である。ここの田中政秋は、斎藤昌三の「いもづる」のメンバー田中野狐禅の本名である。昭和十四年四月十七日上野池之端の蓮玉庵で第一回の例会を開いた。「こけし」誌を刊行、第一号は昭和十四年六月、昭和十九年の第三十号まで続いた。また昭和十五年と十七年に日本橋白木屋でこけし展を開催したというのが際立った活動であろう。展示こけし数は第一回が六百二十五本、第二回は約三千本であった。
昭和二年には山形でも仙台と同じような活動が生まれていた。活動の中心は柴田一(はじめ)であり、「東北玩具普及会」を通して頒布活動を行った。毎月一四日に同好会を開き、杉本青苔、山形秋渓、渋江彦吉、荒井雅雄、田中匡平、松田徳次などが集まって蒐集品の品定めなどに興じた。郷土玩具とともに、久四郎、武蔵などの頒布が行われた。
京都絵画専門学校を卒業して、プラトン社の編集部員、ゼネラルモーターズの宣伝部員などを勤めた橘文策は、筒井でこけしを買ったのを契機に大阪でこけしの収集を開始し、偶然に「やつで会」の河本紫香と知り合う。「やつで会」は「浪華趣味道楽宗・娯美会」のメンバーの中で郷土玩具に趣味のある者たちが集まって作った会で、河本紫香、青山一歩人、村松百兎庵、西田静波、梅谷紫翠、中西竹山、粕井豊誠、芳本倉多楼、塩山可圭ら九名の郷玩仲間が昭和四年ころに始めた。おもちゃ絵の川崎巨泉もよく顔を出していた。ここでは会員取り寄せで互いに分ける頒布会を行っており、こけしでは胞吉、周助、久四郎や太治郎などが頒布された。橘文策はこの河本紫香、川崎巨泉に勧められて頒布会を行うことになる。頒布の呼び掛けは、川崎巨泉の「全国郷土玩具愛好者名簿」からこけしに興味を持つ人を選んでもらって行ったという。昭和七年には雑誌「木形子研究」を発刊してこけしの頒布を始めた。いわゆる木形子洞頒布である。
この頃になると日本各地にこけしの集まりが出来、名古屋には濱島静波、鈴木鼓堂、浅野一恕、山下光華、三島銘二、松岡香一路、村手春風を中心とする「名古屋こけし会」ができた。この会の集まりには、西尾の石井眞之助、三重富田の伊藤蝠堂も顔を出した。頒布品の調達には深沢要がかなり協力していた。「関西こけし会」は、岸本彩星、佐野三壷、村松百兎庵、西田静波、梅谷紫翠、青山一歩人、米浪庄弌の七名を同人として発足した。また、台湾では立花寿、中井淳らの「台北こけし会」、仙台では鹿間時夫、松本錬蔵、立川武雄、水谷泰永らの「第二次仙台こけし会」、後の「きぼこの会」が結成された。

「座」のこけし会の終焉

今まで眺めてきた蒐集家の流れは、いい意味でも悪い意味でも集古会の気質を幾分か引き継いでいる。多くが正業に就き、インテリであり、こけしは余暇の道楽という気分を残して一種の「座」を形成していた。こけしを持ち寄って歓談し、酒を飲んで気持よく過ごすというのが原則だった。川口貫一郎は戦後は郷里の伊勢に戻って「こけし」誌を刊行し続け、戦後のこけし界を支えた一人であるが、東京時代は銀座の御木本にいて、真珠鑑定の責任者だった。西尾の石井眞之助が銀座御木本に川口をたずねたところ、とてつもなく広い部屋に一人大きな机を据えて、その上で黙々と真珠を選り分けていたという。「東京こけし会」の集まりに大森の料亭がよく使われたのは川口貫一郎の蒲田(蓮沼)の住まいに近かったからである。
名古屋の集まりについても、当時幹事の浅野一恕は「とにかく、この会合は戦前の良き時代の名古屋の蒐集家の、おおらかな気質を表現した会合で”遊びと親睦”が主で他意はなかった」と回顧していた。石井眞之助が出席した正月の「名古屋こけし会」はお座敷に芸妓までいる華やかなものだったという。
江戸時代から続く、ものを蒐集する同好の集まり、一種の「座」にはそれを維持するための暗黙のルールがあった。「座」の世界に商売を持ち込まないということなどもその一つだろう。趣味人である以上、頒布会を行うのは良いが、それで同好の仲間から利益を上げることは嫌われた。勿論商売人はこの限りでない。
昭和十五年二月の石井眞之助上京に際して、「東京こけし会」が大森の料亭で歓迎の会を開いた。「和やかに始まった会が飲むほど酔うほどに雰囲気が変わって、深沢要が急に皆の攻撃の矢面に立たされたので驚いた」という思い出を石井眞之助が戦後になってから「東京こけし友の会」の「こけし手帖」に書いている。
これは、いわゆる深沢要のこけし蒐集のやり方が「座」の暗黙のルールに沿っていないと思われたからであろう。閑話(10)で紹介したように、深沢はこのころ年に八回以上東北の産地を飛び回り、こけしを買い付け、新人を発掘し、調査も行った。手に入れたこけしは、こけしに応じて素人用、玄人用などに分けて、地方のこけし会や、それを高く買ってくれる専門家のところへ納めていた。各地の「こけし会」や蒐集家たちにとっても、こけしを見る目のある深沢に依頼し、利用することがこけしを集めるために一番良い方法だったのである。勿論、深沢自身こけしが好きだったし、やりたい調査もたくさんあった。そのためには産地の訪問が欠かせなかった。深沢は各地の「こけし会」や蒐集家たちの要望にこたえる形でそれを実現したのであった。
しかし、「深沢は趣味家の顔をしてブローカー行為をする」と快く思わない人も一方でいたのである。
また、深沢にはこけしは一番それにふさわしい人のところに納めたいという気持があった。特に苦労して復活させた工人の作などは、その真価をわかる信頼できる人に頒けていた。しかし、相手によって頒けるこけしを変えていたことにも、もう一つの嫌われる要因があっただろう。同好の仲間の値踏みをしているという印象を与えたからだ。これも「座」の暗黙のルールを乱すものだったのだろう。
他にも「鴻」のサロンを中心とした「座」の雰囲気を強くもったグループもあった、こうした趣味人たちを中心にした「こけし界」が第一次こけしブームと言われる時代であった。戦争の足音が次第に大きくなる時代を背景に、寸暇を惜しんで自分が大切にしたいものに熱中した時代だった。しかし、濃密な「座」の世界を含めて全てのこけし会活動は戦争激化とともに消失していった。

戦後の「こけし会」

戦前まで保ち続けた「座」の雰囲気を意図的に消そうとした動きが戦後になってから現れた。「東京こけし友の会」がそれである。限られた同好の趣味家を対象とせず、こけしに多少の興味を持つ人には可能な限り門戸を開いて啓蒙し、こけしの魅力を伝えようというものだった。こけし購買層が拡大し、こけし工人の生活が安定すれば、こけしの伝統の存続が図れるという考えがあったのだろう。これに使命感を持って取り組んだのは「東京こけし友の会」の会長を長く務めた西田峯吉であった。昭和四十年代の戦後のこけしの全盛期を作るのに大いに貢献し、アマチュア愛好家の人口は著しく増大した、しかし一方で戦前のこけし趣味人の濃密な「座」の世界は消えていった。
西田峯吉は本来こけしに正面から向き合って真摯に考究する誠実な蒐集家であり研究者であった。それが自分の個人的な楽しみに制約を与えてもなおこけし愛好の大衆化に献身したのには、その使命感を支えるなにがしかの動機があったのだろう。長い会長時代には個人的な主張はあまり表面に出さず、会長としての自分の立場に立った建前的な議論が多かった。しかし、会長を辞めた後に仙台などで一緒に講演をする機会があったが、その時はもうそうした建前から離れて実に自然に良い話をされた。
戦後の各地の「こけし会」は多かれ少なかれ大衆化路線を歩まざるを得なかった。大阪こけし教室や名古屋こけし会、その他も皆ほぼ同じであった。
ただ、非常にうまい工夫をしていたのが「大阪こけし教室」であって、同人と一般会員の二重構造になっていた。同人は米浪庄弌の「おけし園こけし教室」以来の限られたメンバー、寺方徹、阿部四郎、森田丈三、中屋惣舜、綾秀郎と丹羽義一であって、一般の会員とは一線が画されていた。そして同人の間には「座」の気風がいつまでも残されていた。「こけし辞典」が完成した時、教室例会期日にギリギリであったため本を出来る限り詰め込んだ風呂敷包み二つを出版社に東京駅まで運んでもらい、それを両手に持って大阪こけし教室に届けたことがある。米浪会長は大変喜んで下さって、会が終わり帰りの新幹線の時間まで梅田の竹葉亭で一席設けて下さって、同人の方々と同席でご馳走になった。その話をのちに教室の他の方にしたところ大変驚いて、「何十年の会員でも同人に加わって一緒に食事なんて出来ないですよ」と言った。私は東京で中屋惣舜のところによく通っていたことがあり、孫弟子として特別に同人相当の扱いを頂いたのかもしれない。米浪さんは、その後も深沢要の「奥羽余情」などいろいろなものを折に触れて贈って下さった。
各地のこけし会が大衆化路線を進むうちに、それにもの足りない人たちが当然出てくる。より濃密な活動をしたい人達は少人数の会を作って集まった。東京に移った中屋惣舜が「おけし園こけし教室」にならって蒐集家を招いた集まり、俗に言う「中屋教室」もその一つである。さらに「みずき会」、「こけし夢名会」などあり、長く続いたものとしては「こけしの会」で、同人誌「木の花」通巻三十二号を発行した。
各種研究会もあり、あまり広く知られていないが「井の頭こけし研究会」というのもあった。「東京こけし友の会」幹事の人たちの多くが参加したから、大衆路線に献身しながらも、自分の興味を満たす活動に渇えていたのかもしれない。昭和四十七年二月が第一回で橋本正明「鉛古こけし」についての発表、二回目が同年四月箕輪新一「吉田o治とその周辺」、第三回同年六月各自持ち寄りの不明こけし検討、第四回同年七月柴田長吉郎「作並の木地業について」、橋本正明「岩松直助の木地業」、箕輪新一「吉田仁一郎についての資料」「遠藤幸三について」、第五回同年十月西田峯吉「高橋金太郎と万五郎」、第六回昭和四十八年一月中屋惣舜「小幡秀松聞書メモ」「初期丑蔵の年代変化」などであった。発表者は資料を作成して当日皆に配り、発表して討議するという極めてまじめな研究会であった。久松保夫、小野洸、武田利一はその日のテーマにあったこけしを自分のコレクションから持参して議論に加わった。
西田峯吉は本当はこういう研究会で、こけしとの関係を続けていきたかったのではないかと思う。ただ自分自身の興味よりも、こけしとその愛好家、工人たちのために尽くさなければならないという思いが強かったのかもしれない。
西田峯吉は一方で「こけし辞典」の最も几帳面な読者であり、この研究会が終わった後で結成された「こけしの会」の同人誌「木の花」の最も良心的な読者でもあった。こうした本や雑誌の記載事項に関して質問を受けたことも何回かあったが、非常に良く読み込んでいて、周到に考え抜かれた質問内容に驚かされたことがしばしばだった。
一方「こけし辞典」の監修者鹿間時夫は、自然科学者という新しい衣装をまといながらも、江戸時代からの本草学者的な気分を残した蒐集家という一面も保ち続けた。勿論これは肯定的に述べている。名物級のこけしには当然反応したが、だれも見向きのしないような珍品稀品にも必ず手を伸ばした。なんでも集めた。
本来は古生物学者であり、東北大学研究室時代にニホンムカシジカやクズウアナクマなどの新種十一種を含む計六十一種四千点の標本を研究し、報告・記載した。日本化石図譜など著書多数。貝の蒐集でも有名であって、原色図鑑世界の貝などを出版した。
知識欲は極めて旺盛で、学生時代にはその当時出版されていた岩波文庫は全て読了したと語っていた。
知的興味の基本は分類学であり、こけし蒐集においても戦前に出した最初の著作「こけし襍記」で既に系統発生や系統分類に言及している。戦後の「こけし・人・風土」は蒐集というモチベーションの機微に触れる名著であって、あれを読むと必ず「こけし病」をうつされると言われた。またロマンチストであることもわかる。「こけし鑑賞」は鑑賞というテーマに正面から取り組んだ貴重な労作であるが、美の類型においてさえそれを分類し体系化しようとしてやまない。対象を体系化することは、自分自身を体系化することと同じだというような迫力があった。こけしという曖昧糢糊な対象を縦からも横からも眺めまわしながらすっきりとした小宇宙の姿に収めて、自分の掌に乗せてみたいというような思いがあったに違いない。「こけし辞典」はその一つの集大成でもあった。こけしの蒐集は何から何まで自分の興味の追究であって、「こけし友の会」の目指した初心者の啓蒙や、趣味の大衆化にはほとんど興味がなかった。のちに「東京こけし友の会」を離れたのは当然の成り行きだったであろう。ただ「こけし友の会」の幹事時代には、入札品の論評解説など、歯に衣着せぬ本音の語り口でユーモアもたっぷりだったので、憤慨する人もいたが、多くの参会者からは熱い支持を受けていた。
こけしに関しては、謎や疑問が起きるととことん追求して留まる事を知らない、そのエネルギッシュな姿勢は極めて魅力的だった。「こけし辞典」執筆の一年余、毎晩電話があって、新資料の解釈や扱いについて一時間くらいは議論が続いた。また、「こけし辞典」で最後まで不明な点が残った「作並の源流」については、出版後二人で調査することになり、数日間ともに宮城郡を歩き回った。これは調査や研究の醍醐味を味わう得難い体験でもあった。
西田峯吉と鹿間時夫は戦後のこけし界に最も大きな足跡を残した二人であったが、そのこけしに対する関わり方は際立って異なるものだった。


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