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蔵王高湯風影


蔵王温泉

戦前の南村山郡高湯

蔵王高湯の開湯については、日本武尊が東征した時、従臣の吉備多賀由がこれを発見し、戦いの矢傷をいやしたという伝承がある。多賀由が開いたことから「高湯」という地名になったともいうが、高湯は白布高湯、信夫高湯など標高の高い温泉に一般的であるから、多賀由のほうが付会であろう。 十四世紀の山形城主斯波兼頼公の時代には、この温泉は酸性が強く、毒虫に刺された傷口に効くということで知られ、また最上義光公が少年時代には、親子でこの温泉に泊まり、夜半に盗人が入って来たのを義光公が退治したので褒美に名刀「鬼切丸」を授かったという話などが残っている。湯治場としては古くから知られていたようである。
西の山湯殿山に対して蔵王山を東の山と称して、山岳行者・修験者の湯でもあった。
古くは最上高湯として知られ、明治二十二年町村制施行で南村山郡堀田村になった時期は堀田高湯とも呼ばれたが、昭和二十五年に堀田村が蔵王村に改称されるに及んで蔵王高湯、昭和三十一年十二月に山形市に編入され、さらにスキー観光が盛んになって蔵王温泉と呼び名が変わった。
折口信夫は「山の湯雑記」で蔵王高湯について「最上の高湯は、何にしても、人がこみ過ぎる。出羽奥州の人たちは、湯を娯しむと言うより、年中行事として、尠くとも一週間なり、半月なり、温泉場で暮すと言う風を守っている。そうした村々から、女房たちや若い衆が、大きな荷物を背負って、山を越えて来る。最上の湯は、其ばかりか、温泉その物が、利きそうな気をさせる。其ほど峻烈に膚に沁む。東北には酸川(スカワ)・酸ヶ湯(スカユ)など、舌に酸っぱいことを意味する名の湯が、大分あるが、我々の近代の用語例からすれば、酸いと言うより、渋いに偏った味である。最上高湯は、狭い山の湯村に驚くばかりの人数が入りこんで居る。宿と宿とが、二階の縁から縁へ跨ぎ越えられるほどに建て詰んでいる。其で居て、何だか茫漠とした感じのあるのが、よさと謂える湯治場である。」と書いている。農村の湯客で賑わい雑踏していた本来の湯治場の様子が伺える。


小野洸氏撮影(昭和二十九年頃)                            
多くの湯治客でにぎわった蔵王高湯には、その湯治客目当てに土産物としての大量のこけしが蔵王東麓の遠刈田や青根から山を越えて運ばれるようになっていた。もともと湯治客相手に豆腐を作り商っていた万屋斎藤藤右衛門は、明治十年代頃から高湯の酒を仙台地方に卸し、帰りに遠刈田・青根で土産物の木地製品を仕入れて自分の店で売るようになった。また、能登屋の岡崎栄吉(戸籍名嘉平治)は二男久作を連れて、果物を卸し、帰りには魚を高湯まで運んでいたが、途上久作は遠刈田・青根を見て、高湯でも木地業を起こすことを考え、明治二十年弟の栄治郎を青根の佐藤久吉に弟子入りさせた。これに刺激された斎藤藤右衛門は、佐藤茂吉の弟子鈴木三吉と阿部常松を職人として高湯の自分の家に迎えて、高湯で直接木地製品を作り始めた。
その後、万屋・能登屋に遠刈田から佐藤重松、文平、周治郎、直助、松之進、我妻勝之助などが入れ替わり来て職人を務め、また高湯からも岡崎長次郎、斎藤松治らが木地を修行して、木地業を始めたので、高湯は一大産地として知られるようになった。
木地の系統は純然たる遠刈田の流れを汲むが、阿部常松や岡崎栄治郎によるこけしの豊麗な作風は高湯独特のものとして定着し、高湯の他の作者もその作風にならったので、一般にこれを独立とみなして蔵王高湯系として区別する。

右の写真は蔵王高湯系の創成期に活躍した二人の極古い時期のもの。ともに明治期の遺品といわれている。


斎藤源吉 木村吉太郎 石沢角四郎

産地風影

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