蔵王高湯系の工人
上ノ山
昭和四十年九月
戦前の上ノ山温泉
上ノ山は旧城下町。街道沿いの下町に、湯町、新湯、下湯、河崎、高松、葉山などの湯街が栄えた。折口信夫の「山の湯雑記」には「蔵王山の行者が、峰の精進をすましての第一の下立ちが、此(最上)高湯だとすれば、麓の解禁場が上ノ山に当るわけである。其ほど繁昌して居て、亦年久しい湯治場だろうのに、未に新開地らしい所がある。青い芝山の間に、白い砂地があって、そこが材料置場になったりして居る。思いがけない町裏から三味線の音が聞えて来たりする。」と紹介されている。
明治二十九年十月七日上ノ山の茅葺職人の家に生まれた木村吉太郎は、明治四十五年十七歳の時荒井金七の弟子となって木地挽きを学んだ。金七は蔵王高湯能登屋の岡崎久作の家に弟子入り、主に久作弟栄治郎から木地を学んだ。吉太郎は大正七年二十三歳独立して開業、以後継続的に木地を挽きこけしを作り続けたので、大正期の比較的古い作品も残っている。昭和二年刊の「こけし這子の話」でいち早く作者として紹介された。
私が上ノ山を訪れた昭和四十年には吉太郎七十歳、まだ元気でロクロに向かっていた。こけしも数本店の棚に並んでいた。老齢のため筆力は落ちていたが、それなりに味わいのあるこけしで、私も一本求めてきた。
翌年の昭和四十一年脳溢血で倒れ、四十七年七十七歳で亡くなった。
右上の二本は中屋惣舜氏蔵で大正末期の作例。蔵王高湯系の古い様式が残っている。
左写真は田村弘一氏蔵。保存実に良く、古式の面描、古拙とも見える胴模様は実は熟達の筆致、味わい深い逸品である。