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蔵王高湯の工人

蔵王高湯の風影

斎藤源吉


昭和三十年頃 小野洸撮影
斎藤源吉は明治十八年五月一日生まれ、生家は明治二十一年まで銘酒男山を作っていた酒造業。木地は、十七歳から従兄弟の斎藤松治に就いて学んだ。長く松治の三春屋に製品を出していたが、昭和十三年から自分の土産物店緑屋を開業してここにこけしを並べるようになった。

残念ながら私は斎藤源吉とは会う縁に恵まれなかった。
私の父親は大学が仙台だったので、こけしにも多少興味があったらしく、戦後仕事の出張で東北に行った折にはこけしを買って帰る事もあった。
その中に橋本力蔵の尺があって、いい艶で重量感もあり、私の好きなこけしだった。当然力蔵の師匠源吉には強い憧れがあって、こけしの産地へ旅行に行くときには最初に訪ねたいと思っていた。高校生のとき、旅行の計画を立てて、まず夜行で米澤に行き、小野川、白布高湯を訪問、さらに山形に北上して蔵王高湯に行こうと決めた。そして冬休みを待って、昭和三十九年十二月二十二日の夜行で上野を出発した。二十三日朝一番のバスで小野川に向かい、岡崎直志を訪ねた。私がこけしを目的として産地を訪れ、会った最初の工人である。その口から聴いた言葉が「蔵王の源吉さんが一昨日亡くなった。」と言うものだった。源吉は十二月二十一日に山形県済生会病院で八十歳で亡くなっていたのだった。

その破綻の無いこけしの作風そのままに、おっとりとして温厚篤実な人柄だったと言う。

右上の写真は、昭和一桁代のもの、大ぶりの頭に鷹揚な表情、気持ちのいい作振りである。一般のこけしでは後年になるほど肩の張りが無くなるのが通例だが、源吉の場合、初期のものの方が肩に張りが無く、昭和十二年頃ころから肩に張りが出てくる。有名な鹿間旧蔵の昭和初期のもの(左写真)はほとんど肩がなく、遠刈田に近い胴であった。



木村吉太郎 石沢角四郎

産地風影

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