蔵王高湯風系の工人
釈迦堂
石沢角四郎は明治二十七年五月二十日山形県南村山郡東沢村釈迦堂の大工の家に生まれた。
明治三十九年十三歳の時、蔵王高湯の三春屋斎藤松治に弟子入りし木地挽きを学んだ。明治四十一年一月兵役に就いていた斎藤源吉が除隊となって戻ってきたので、以後は主に源吉に教わるようになった。こけしのほか、鳴り独楽などの玩具、盆類も挽いたが、それらは松治の妻が堤げ売りと称して旅館を回り売り歩いていた。
大正四年年期明け後、一時山形市や、米沢市でも職人として働いたが大正七年釈迦堂に戻って独立開業した。
製品は主に米沢市座頭町ひろえ屋に納める機類(木管類)で玩具は全く挽かなかった。
石沢角四郎の経歴や、角四郎と交流のあった木地師たちからの聞書は吉田慶二氏によって周到に行なわれており、昭和四十一年に私家版「聞書・木地屋の生活」としてまとめられている。
釈迦堂に移って以後の石沢角四郎に再びこけしを作らせたのは深沢要である。
「昭和十五年九月十日、私は幸いにも他出前の角四郎に会い、こけしを頼むと、翌日彼はヨウシンを求めてきて、見ている間に思い出のこけしを作ってくれた。 (中略) 角四郎は長い間、本当に長い間、こけしを作る機会はなかったという。これからはまた作ることになるだろうが、角四郎はこの初作においてすでに一家を成している。(深沢要遺稿)」と深沢氏が書いている。
このときの二本はいま鳴子の日本こけし館深沢コレクションに保存されている。一本(写真右)は黒頭、目は下瞼が下方に膨らむ独特の表情、他方(写真左)は手絡で下瞼は上方に湾曲する。淡白な作風ながら、大正初期の蔵王高湯の形式は確かに残している。「こけし辞典」の写真は不鮮明であるが、この右の黒頭である。
深沢要が紹介して以後、鴻の頒布などもあって作品は蒐集界に知られるようになった。戦後も昭和二十八年の伊勢こけし会での頒布などもあり、注文に応じて昭和四十三年頃まで作り続けたが、昭和四十二年に心臓を悪くし、以後製作数は減った。私が最初に訪問したのは昭和四十二年九月、七寸一本、四寸三本を入手、翌四十三年三月に再訪し尺一本を入手したがこれがおそらく最後に近い作品だったと思う。口数の少ない職人気質の工人だった
一年半後の昭和四十四年十一月六日七十七歳で亡くなった。