青根
青根温泉
青根は遠刈田からさらに登って、標高七百三十米の蔵王山麓にある温泉である。「天文の頃、前川村の百姓四名が青木の皮で蓑を作らんとして大いなる青木の側に立ち寄りしにその青木の根より温泉湧きいずるによって、四名ここに移住して浴池を作る。よって青根の湯と号す。」と伝えられる。伊達公の入湯の記録もあり、文久年間に伊達慶邦公が訪れた際、遠刈田新地の佐藤周右衛門と佐藤文吉が二人挽の技を披露したという。
こけしの歴史にとって青根が重要なのは、明治十八年に丹野倉治が設立した木地細工工場に、東京本所の木地師田代寅之助が招かれて、多くの弟子に一人挽の足踏み轆轤を伝授したからである。この丹野の工場では、遠刈田の佐藤久吉、茂吉、重松、重吉、文平が働いたが、弥治郎から佐藤幸太が、蔵王高湯からは岡崎栄治郎が、作並からは槻田与左衛門が、秋保からは太田庄吉が、土湯からは阿部常松が来て、田代寅之助が伝えた一人挽を学んだ。
各地のこけし工人が青根の丹野の工場に集まり、互いの手法に刺激を受けながら、足踏轆轤の利点を最大限に生かして新しい様式を生み出していった。やがて彼らが自分の村に戻って独自のこけしを育て広めることによって「こけしの十系統」が確立したのである。云わばこの時代の青根は各系統のこけしの揺籃の地であった。
明治二十六年になると、青根で漆器の椀類を商っていた小原仁平が、丹野の工場に対抗して小原木地工場を設立、遠刈田から佐藤寅治、佐藤直治らを招き、さらに直助、文平なども加わって、盛大に操業を行った。遠刈田の周治郎、重吉、治平、鳴子の大沼岩蔵、のちに花巻に移る照井音治らも一時この小原工場で働いた。丹野、小原が競った明治三十年代が青根木地業の最盛期であった。生産量は遠刈田を凌ぎ、製品は仙台、白石、蔵王高湯、山形、飯坂にまで出荷された。なお佐藤直治は、小原仁平の娘きくのと結婚して婿となったので、小原直治の名で知られる。
明治三十八年丹野工場で中心になって働いた佐藤久吉が四十八歳で亡くなり、四十年には丹野倉治も亡くなったので丹野工場は縮小衰微の道をたどることになる。一方の小原工場も明治三十九年に火災にあい、明治四十一年に再建されたが経営は苦しく、以後地元の消費を支える程度の規模となった。小原直治が大正十一年に亡くなった後は事実上営業は休止となった。
こけし蒐集家の時代に入って、青根でこけしを作ったのは、佐藤菊治と菊地孝太郎である。
佐藤菊治は、明治二十八年青根の旅館業佐藤菊治郎の長男として生まれた。菊治郎は遠刈田の周右衛門の義弟だったので、周右衛門の甥で治平家の佐藤重吉(母方の従兄)について木地を修業した。大正に入って青根で独立開業したが、既に木地製品の需要が落ちた時期であったため苦労を重ねた。昭和七年に大工・櫛屋等と共に「青根木工組合」を結成し、菊地孝太郎、佐藤貢等と奮闘したが成功せず、三年で解散した。こけしはほぼ間断なく制作していたので、残る作品数は少なくない。昭和四十五年七十六歳で亡くなった。
菊地孝太郎は、明治二十八年山形で生まれたが、六歳で青根の木地業菊地茂平の養子となった。木地は小原直治に就いて修業した。「青根木工組合」では、木炭ガスタービンの動力ロクロを導入したが、製品の売れ行きは思わしくなかった。昭和十三年木地業に見切りをつけて豆腐屋を開業。こけしは戦後ふたたび再開したが描彩のみで、木地は息子の啓がほとんど挽いていた。平成四年九十八歳で亡くなった。
左の中屋・鹿間蔵は正末昭初の菊治の作。胴は細身で、すっきりとした古式の姿が美しい。中屋蔵の表情からは、伝小原直治にも連なる青根の古い格式を偲ぶことができる。
右の矢内蔵・菊地孝太郎は昭和十年頃の作。戦前の孝太郎のこけしは作風が一定せず、出来にむらもあったが、この二本は童顔で無難なこけしである。「こけし辞典」にはこの写真が掲載された。
この二人は戦後もこけしを作り続け、産地青根の命脈を保った。
特に、戦後多くの工人が新型こけしの影響を受けて、作風が変質していったが、佐藤菊治は昭和四十年頃、正末昭初の型の復元に勤め、こけし店「たつみ」からその復元作が多く売られたので、戦後作にも見るべきものが残る。
昭和四十年の菊地孝太郎