遠刈田風影
遠刈田温泉から新地へ
古い遠刈田温泉は中央に手前から、新湯、冷湯、温湯と共同浴場が並び、
奥手やや右側に御留湯があった。正面の丘の中腹にあるのは子丑の社。
両側に佐藤、大宮、小室、我妻といった旅舎が立ち並ぶ。
内湯はなく浴客は旅舎から中央に並ぶ共同湯に入りに行った。
昭和四十年春、
松川によって隔たる遠刈田温泉と新地をつなぐ橋はまだ木造だった。
昭和四十六年十二月 新地より蔵王を望む
遠刈田の木地業は、新地で生まれた。この地は、藤原氏の末裔、あるいは佐藤忠信の子孫によって拓かれ、全戸源氏車を家紋にすると言われるが、定かではない。会津、稲子、横川を経て木地の技術が伝わったとされる。幕藩時代には、白石の片倉家の支配化にあり、組頭など扶持を得ていた家もあった。
遠刈田温泉が湯治場として盛況になる文化文政ころから、土産物としての木地製品、いわゆる赤物の生産も始め、こけしも作り始められるようになった。
東北の木地産地に、足踏みの一人挽き技術を導入する拠点となった意義も大きい。一人挽きは東京本所の木地師田代寅之助によって明治十八年旧暦一月に遠刈田に伝わり、さらに七月からは遠刈田の奥の青根にあった丹野倉治の工場で田代による指導があった。このとき丹野の工場には、弥治郎、秋保、作並、蔵王高湯、肘折などから多くの工人が集まって、一人挽きを学んだ。
また赤物小物の製作においても、二人挽き時代に比べて工人が自分の創意を豊かに取り込み得るようになったので、青根・遠刈田から技術を学んで各地に帰った工人達により、多彩なこけしが作られるようになった。これがいわゆるこけし十系統への分化である。
戦前の遠刈田には、佐藤松之進、佐藤直助と言う名工がいたが、戦後も四十年代になるとすでに亡くなっており、岩手県湯田から戻ってきた佐藤丑蔵や、文助、好秋などの時代になっていた。それでも丑蔵は、電動轆轤を使わず、母屋に接した足踏み小屋でこけしを挽いていた。
佐藤丑蔵の家、手前が足踏みの轆轤小屋。
遠刈田新地よりだらだら坂の一本道を遠刈田温泉へと戻る