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佐久間 粂松



佐久間 粂松 昭和十五年頃

佐久間兄弟の中で粂松がこけし製作を再開した時期は最も遅い。再開のいきさつについては閑話(10)で述べたが、深沢要の訪問要請が契機であり、再開の初作は昭和十五年三月であった。明治三十三年に故郷土湯を離れて以来、実に四十年ぶりのこけし復活であった。この時の深沢要の旅行は、富田の伊藤蝠堂が主催する於茂千也祭のために、頒布のこけし買い付けを頼まれたものであったから、復活初作数本は手元に置いて、注文して届いた初期のものは於茂千也祭に出品されたであろう。伊藤蝠堂蔵の粂松は深沢の初作に近いものであった。
佐久間兄弟の中でも個性があり、復活後もっとも多作であった粂松であるが、その製作期間は昭和十五年から十八年と三年程度で意外なほど短い。昭和十六年以前の作品は、下図左の五本に掲げるように土湯湊屋の正統的な作風で、穏やかなこけしであった。左端は石井眞之助旧蔵で、深沢要経由のものであろう。下図のうち横山・鹿間・中屋の三本は「こけし辞典」の粂松の項に掲載された写真である。右端の植木蔵は昭和十七年に作った瓜実顔の写楽張りと称されるこけしで、個性強烈であり、これを強く支持する蒐集家がいる一方で、敬遠する蒐集家もいる。
性は厚順、また恥ずかしがりやでもあって、客が来ると隠れてしまうといったところもあった。一方で仕事は極めて迅速、描彩の筆致は踊るように早く、馬鹿丁寧なほど遅筆な斎藤太治郎とは好対照だったと鹿間時夫は語っていた。
粂松の魅力は、即興に近い迅速な筆さばきで、型にはまらないこけしを次々に生み出していったところにある。一本一本作風には幅があって殆ど同じものはないが、出来たこけしはいづれも湊屋の味わい深い情味にあふれていた。三春人形を立体の浮世絵だと言った人がいるが、粂松のこけしの表情にも、役者の大首絵のように浄瑠璃の音に呼応するような艶と張りがある。江戸末期に交通の要衝として賑わい、遊郭あり、また回り舞台を備えた常打の芝居小屋まであったという土湯の風土が生みだし得たこけしであった。
昭和十九年二月に妻コトを失ってからは気落ち甚だしく、人恋しくなって、縁者を廻って放浪することが多くなった。妻コトの姉シオが嫁いだ斎藤太治郎を雪の中軽装で見舞に訪ねてずぶ濡れになったり、仙台の娘ナツを訪ね、その家から理髪店に行き銭湯を探すうちに道に迷って行方不明になり、小屋にうずくまっているのを保護されたり、戦時下の無性に淋しい晩年であった。昭和二十年十一月二十日老衰のため亡くなった。七十一歳であった。



斎藤太治郎 大内今朝吉 佐久間虎吉

産地風影

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