フォト・ギャラリー

岳温泉

土湯温泉

飯坂・鯖湖

大内今朝吉


昭和四十年十二月 岳温泉

左写真の松野屋物産店は明治三十九年大内今朝吉が開業した。
大内一次は家業の松野屋を継ぎながら木地を挽き、製品をこの店で販売していた。


岳のこけしは明治三十二年に土湯出身の佐久間由吉が職人として働きに来たことによって始まる。岳に由吉を招いたのは農業の傍ら豆腐屋(高野屋)を開いていた平栗の家で、当時十八歳だった平栗馬吉はこのとき由吉について木地挽きとこけし作りを学んだ。由吉の滞在は約半年であったが、由吉が去ったあとも馬吉はこけし作りを続けた。

馬吉の弟子となったのは、鈴木治三郎の二男今朝吉と後に旅館業泉屋に転じた二瓶辰弥である。今朝吉の弟子入りは明治三十五年二十歳の時だった。入営、日露戦争従軍のあと二十三歳で土産物店松野屋を開業、轆轤を据えてこけしの製作を続けた。

明治四十一年平栗馬吉が二十七歳で早世、二瓶辰弥は転業したので、岳のこけし製作は今朝吉のみとなった。松野屋では自挽きの木地製品のほか、土湯の西山辨之助のこけしも並べて売った。この縁で大正二年には辨之助の三男弥三郎が岳に来て松野屋の職人を勤めた。今朝吉のこけしは辨之助一家の影響も受けている。

今朝吉はアキと結婚後、長男一次ほか四子を得たが、大正九年岳の大内鉄蔵・リキの夫婦養子となり大内姓に変わった。

長男一次は大正十三年十六歳より二十一歳まで日光の木地師白井亀吉に入門して盆や鉢などの大物挽きの修業をし、昭和四年春帰郷後父今朝吉よりこけしや玩具の小物挽きを習った。

大正期の一時期、子供のおもちゃとしてのこけしは衰退し製作を中断していたが、昭和初めより蒐集家が古いこけし作者を訪ねてこけしを求めるようになり、今朝吉や一次も昭和五,六年頃より盛んにこけしを作るようになった。今朝吉のこけしもこのころ、昭和五年頃のものが多く残っている。岳は中心地土湯とある程度の距離があること、また大正時代にはあまりこけしを作らなかったことにより、今朝吉が昭和五年頃に再開したこけしは明治期の土湯の作風をそのまま残していると思われ、非常に貴重である。今朝吉に伝わる作風は、土湯の湊屋亀五郎の系譜であり、亀五郎の孫西山辨之助、亀五郎の曾孫由吉の明治期の作風であろう。

一次妻ミネは結婚(昭和十一年七月)して以来、今朝吉がこけしを挽くのを見たことがないと語っていたそうなので、今朝吉自挽きのこけしは一次に小物を教えた頃の昭和四,五年ころからせいぜい昭和十年頃まででそれ以降はあまり挽かなかったのかもしれない。一次がこけしを本格的に作り始めると今朝吉は描彩も中止し、その後は戦後になってから蒐集家の強い要請によって一次の木地に面描を行なったものが少数あるのみである。

左の写真二葉は大内慎二さんから送っていただいた。撮影は加賀山昇次で昭和二十九年頃と思われる(こけし手帖・第二号に載る)。大内今朝吉そして若き日の一次の姿がある。

今朝吉は明治十六年生まれ、この写真は七十一歳頃であろう。この写真の撮影者の加賀山昇次氏が「こけし手帖・第二号」で詳しく紹介し、今朝吉健在を報じたので蒐集家からの製作依頼が来るようになり、これに応えて一次の木地に描彩のみ行った。しかし、昭和三十五年頃より眼が不自由になりこの面描も休止、昭和三十七年七十八歳で亡くなった。



ここに紹介する中屋蔵、鈴木蔵はいずれも昭和初期、製作再開直後のもの。中屋蔵の右、鈴木蔵の左のように胴が下部に向かって直線的に広がる形(蒐集家は俗に三角胴と呼ぶ)が、今朝吉の典型的な姿で、土湯の古い形態を残しているといわれる。復活初期のものは蝋引きもしていない。かせ(前髪の左右の飾り)を描かないのも今朝吉の特徴で、かせを描くのは一次だと言われたこともあった。 しかし写真で紹介したらっここれくしょんのように明らかに今朝吉描彩でかせを描くものもまれにある。
「こけし辞典」には鼓堂コレクション二本のこの写真を掲出した。

今朝吉は昭和四、五年頃に、こけし製作を再開するまで、ほとんどこけしを作らなかったので、再開直後のこけしには中断以前の明治から大正初期の作風がそのまま残っていた。平栗馬吉を通して明治期の由吉の、さらにその後影響を受けたという西山辨之助の、古い作風を今朝吉のこけしからうかがうことができる。

今朝吉のこけしにふれて、「このような渋いこけしを眺めていると、文楽の小屋の中で、浄瑠璃の音が流れてくるような、古いノスタルジアの彼方へ没入していくのを感じる」(鑑賞)と鹿間氏は書いた。土湯本地を離れているためか、浄瑠璃といっても心中物の濃密な艶ではなく、むしろ無駄なものをそぎ落とした軍記物の、腹に響く味わいかもしれない。



斎藤太治郎 佐久間虎吉 佐久間粂松

産地風影

印
ホームページへ