川俣
川俣 昭和四十年
川俣は、阿武隈山地西斜面の丘陵地帯にあり、伊達郡南部に位置し、古くから絹織物の産地として知られた。
この地に絹を伝えたのは崇峻天皇の妃小手姫という伝承がある。蘇我氏の命を受けた東漢直駒に夫崇峻天皇は暗殺され、息子蜂子皇子は行方がわからなくなったので、小手姫はその行方を求めて旅に出て、最後に川股にたどり着いたといわれる。この地が蚕の飼育に適していることを見て、絹織物を始めたという。また小手姫についていたのが。秦の庄司という人で、織物の技術は秦氏により伝えられたともいう。川俣の絹は古くから有名で、平安時代には安達絹、盾絹と呼ばれていたらしい。
盾絹は小手子姫の住んだ地区の絹織物として、「姫舘」のタテに因んだ呼名という。室町時代の明応年間(1500年頃)には盾絹を平絹(ひらぎぬ)と呼びあらため、、およそ五百軒の家で絹を生産していたと文献にある。江戸時代は近江商人の手で江戸と京都に運ばれ、販売され川俣絹(川又絹)あるいは糸好絹(いとよしきぬ)と呼ばれていたという。
明治になると、輸出用の絹製品が作られるようになり、明治十七年には輸出広幅羽二重の生産も始まった。川俣の羽二重は、極めて品質が高く、ストッキング、夜会用の手袋、ストール、ハンカチとして大きな需要があり、盛んに欧米へ輸出されるようになった。
土湯温泉を襲った明治二十三年、三十六年の水害で、経済的に大きな打撃を受けた佐久間浅之助の一家が川俣に移ったのにはこうした川俣の絹織物の盛況が背景にあり、木地を挽く仕事があったからである。浅之助が川俣に移るのを世話したのは材木商菅野徳治だという。菅野は川俣の機業用木管製作注文を湊屋の浅之助に仲介していた関係が有り、経済破綻に直面した浅之助一家の川俣移転を助けたのであろう。浅之助が末子虎吉を連れて土湯を離れたのは明治三十八年十一月十九日、折りしも雪がちらつき、土湯の町には日露戦争の凱旋歌が流れていたという。小学校卒業成績第一等で表彰された虎吉は漢籍数冊を入れた文庫箱を大事に背負っていたが、後に浅之助から「木地屋にはもう漢書はいらない」と読むことを禁じられてしまう。このとき、虎吉十五歳であった。
川俣では五男七郎、六男米吉も合流、一家はここで盛んに木管類を挽いた。
しかし、一家揃っての仕事をそう長くは続けることは出来なかった。
晩年に立て続けに襲った悲劇が浅之助にさらに追い討ちをかける。川俣移転の数ヵ月後、浅之助は馬に蹴られて怪我を負い、それがもとで翌明治三十九年四月二十八日六十歳でこの世を去ることになる。浅之助の死後、やはり菅野の斡旋で明治四十年二男粂松が川俣に来て木管製作を始めるが、一方でまもなく七郎は浪江に去り、米吉は三男常松の死後その妻の後夫となって福島に去ったので、川俣日和田に残ったのは粂松と虎吉のみとなった。この二人は機業用木管製作が中心で長くこけし製作からは遠ざかった。浅之助より早く明治三十年頃に土湯を出て、福島の洋家具店の木地を挽いていた長男の由吉を見出して、最初にこけしを作らせたのは東北大学の中井淳だといわれている。昭和十年頃の復活期の数本が知られている。五男七郎は浪江にいたが、しばしば由吉の家で木地を挽くこともあり、由吉がこけしを復活したのを見て、昭和十二年頃から作り始めた。川俣の虎吉は昭和十三年頃、また米吉と粂松は深沢要の要請で昭和十四、五年頃から再びこけしを作るようになった。こうした佐久間兄弟の復活期のこけしは明治末期に製作をやめて以来の再開であり、一種の冬眠状態からの復活であって、明治期の面影を残すものとして貴重である。ここに紹介するらっここれくしょんの二本は高久田収集品で昭和十五年の作、胴のロクロ線はやや繊細になったが、例えば右の七寸は首元から直線的に胴底に広がるいわゆる三角胴で、虎吉の戦前の良い時代の典型的形態である。このように緊張感のあるこけしを作った虎吉も、戦後になると他の産地の影響を受け、胴は太く膨らんで頭も大きくなり、フォルムは崩れた。面描も目じりが下がり、口は紅のみとなって甘い表情に変わっていった。上掲の初代虎吉の写真とともに写る四本のこけしはこの当時の作に近い。虎吉のこうした落潮に危機感を抱いた福島こけし会は昭和三十五年に戦前作を虎吉に見せて復元を行い、翌三十六年には橋元四郎平氏が旧らっここれくしょんの七寸を川俣に持参してその復元を行った。「昭和三十六年橋元四郎平氏の指導による復元作十本は、大部分橋元氏が手許に残しているため、一般には知られていないが、昭和十五年に肉迫した快作であり、戦後虎吉の代表作となっている。」とこけし辞典は書いた。橋元先生は辞典のこの記述を目にして「自分でさえ忘れていたことを辞典は書いているんだよ。大部分手許に残しているとは恐れ入ったね。まさに辞典恐るべしだ。」と語った。右の二本は橋元氏の昭和十五年作と、昭和三十六年のその復元作である。虎吉はその二年後、昭和三十八年に数え年七十三歳で亡くなった。橋元氏復元の十本には、「川俣 虎吉作 七十才」の署名がある。父の死後二代目虎吉を襲名した長男義雄も、昭和四十四年、当時都立家政にあったこけし店「たつみ」の依頼で昭和十五年頃の父の作を復元した。この一連の復元作も形態描彩ともに、初代の最盛期に迫る良い出来であった。
佐久間義雄(二代目虎吉)
昭和四十年川俣日和田の自宅前
ホームページへ