土湯の工人達
土湯の中でもっとも工人らしくない工人といえば太治郎だろう。それゆえ毀誉褒貶も激しい。
村会議員や小学校の教員を勤め、郷土史を編纂するインテリでもあった。
いつも朝湯に入って身だしなみを整え、茶を嗜み、小唄勝太郎のレコードを楽しんだ。客の前ではひざを崩さず、博覧強記で話し始めると話は尽きなかった。こけしは寡作でなかなか手にはいらず、蒐集家は太治郎の機嫌を取るのに汲々とした。音曲が好きなことを聞き伝えて、こけしを得ようと太治郎の前で舞踊を舞った家元までいた。
こけしは、その性格を反映して、巧麗精緻で破綻の無い几帳面な作風。前髪を一本を描くのでさえ、ゆっくりじっくり三筆以上を要したと言う。自ら自分のこけしを「楷書体のこけし」と言っていた。
生家は東屋という旅館であったが、兄が家督を継ぐので、学校卒業後西山弁之助について木地挽きを明治十九年より二十二年まで修業した。
こけしの伝承は当然弁之助からであり、浅之助以来の名手と言われた弁之助の手筋を確実に継承していたと思われるが、残っているものは大正時代後期に教員を辞めて木地業を再開してからのものしかなく、それらは、多分に太治郎独特の美意識が入って変容したものだった。
太治郎はいつも炉の灰を灰掻きできれいに掻き均し、部屋の置時計は一時間遅らせてあった。人から急かされるのが嫌だったためであろうか、あるいは一般の俗人達といつも違う時空に居たかったからなのだろうか、その真意はわからない。
(ここに掲載した太治郎の写真は故佐久間貞義さんから頂いた)
初期のものは生き生きとして童女の可憐さを残し、魅力のあるものだったが、晩年体力が衰えるにつれ、顔は長く目じりが下がって張りが失われ、一部から「老女の厚化粧」と酷評もされた。「ただ、この晩年の甘酸っぱいような婀娜な艶笑を貴として珍重する蒐集家もいるんですね。」と鹿間時夫氏は言っていた。「晩年の助平面は太治郎慢心の表れと嫌う人もいるが、一方で助平的なコケティッシュな表情こそ中国料理の濃厚な情味があるという人もある。」とも書いた。決して自分のことだとは言わなかったが、中国料理の濃厚さを嗜好したのは鹿間氏本人だったろうと私は思う。
らっここれくしょんの斎藤太治郎(写真右)は大正後期の作七寸、赤の太い轆轤模様も二段(昭和以後は三段になる)であり、極く初期の作風を残している。顔も童女の初々しさがあり、これが太治郎の本領であろう。
昭和七-八年作(写真左)はいわゆる太治郎が一番もてはやされるようになった時期、この頃までが鑑賞に堪えうる太治郎であろうか、このあと昭和十年代に入ると表情は急速に衰えて媚を含んで甘くなる。
この二本はいづれも中国料理の濃厚さが現れる以前の作である。