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土湯温泉


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橘文策さんが訪れたころの戦前の土湯(橘氏撮影)


土湯は、吾妻富士南麓、荒川に沿った温泉地、その開湯は古く、大穴貴命によるという 伝承もある。
会津若松、米沢の物産を阿武隈川の水運に頼った集散地福島にはこぶ輸送路の要地にあり、六度にわたって幕府の天領となった。
決して山村の鄙びた湯治宿ではなく、古くから六箇寺院(西海子坊、松之坊、柱之坊、卒塔婆坊、榧之坊、柿之坊)が栄え、荒川沿いに宿場が連なり、荷駄を運ぶ牛を繋ぐ牛舎も十分に整っていた。遊郭や廻り舞台を備えた常打ちの芝居小屋もあった.。

このように殷賑を極めた土湯も戊辰の役で福島、二本松にまで迫った官軍の略奪を恐れる会津若松軍によって完全に焼き払われた。さらに明治になると鉄道を中心とする交通路の変更によって、輸送基地としての重要性も失われて、山間の温泉地という位置へと変わっていった。
明治二十三年、三十六年の洪水による水害、昭和二年、二十九年の大火など多くの災害にも見舞われた土湯は、今では古いものはほとんど残っていない。
西山勝次の妻女キクはこの頃まだ健在、非常にしっかりした口調でこの六箇寺院のことや、京祇園以外唯一だったという土湯の廻り舞台について熱心に話してくれた。「雪の深い冬のこと、沢山の荷駄を背負った荷牛の列が雪の中で動けなくなった、助けを求めたが土湯の村の長は危ないからと助けを出さず、多くの牛が雪に埋まって死んだ、その後村長の家では牛のたたりで次々よくない事が続いた」というような話もあった。
後に、「こけし手帖」や橋元四郎平氏の「ふくしまのこけし」に、土湯の歴史や土湯こけしの発生について何回か書く機会をもったが、キクさんからこうした話を聞く体験が無かったら、おそらくあのように情熱をもって書くことは無かったと思う。

憲一の家は、土湯温泉に向かって下って行くその降り口にあって、家に入ると三和土からそのまま続くような居間があり、手前側に炬燵があった。訪ねると、キクおばあさんは大変気を使ってもてなしてくれて、どんぶり鉢に山菜の漬物を盛って出してくれたり、東京の人は甘いものがいいかといって砂糖をそのまま器に入れて出してくれたりした。憲一はこちらの注文に気軽に応えて、居間の隣にあった作業場で多様なこけしを次々と作ってくれた。

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昭和四十年頃の土湯、雪の阿武隈山系が望める

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荷駄を積んだ牛の列が通った土湯街道(左)          昭和四十年頃の土湯(右) 



斎藤太治郎 大内今朝吉 佐久間虎吉 佐久間粂松

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