小安
戦前の小安温泉 (橘文策撮影)
小安は秋田県湯沢市皆瀬字湯元の古い温泉で、湯坪の開設も四百年ほど前と言われている。南部藩から佐竹藩へ抜ける山道があり、子安番所が設けられていた。文化八年には、九代目の藩主佐竹義和が仙北領内巡回の途中、家来三百人を連れて小安温泉を訪れ、一泊したという 記録がある。
この小安をこけし産地として一躍有名にしたのは伊藤儀一郎であり、そのきっかけは武井武雄の「日本郷土玩具・東の部」であった。「折角木地山のこけしが日本一を張ってゐたところが、この尤物が発見されるに及んで断然日本一の株をこの方に奪われたかの感がある。事程左様にこのこけしの優秀さは嶄然頭角を露してゐるもので、すでに玩具の域を脱して装飾芸術としても認め得る佳品である。木地山と両横綱を送り出した皆瀬村は以て偉としなくてはならない。木地山を土人形に譬へるなら滝ノ原は御所人形、嵯峨人形の意気であって、その優雅な美しさは黒檀の違い棚に安置しても正にふさわしいものがある。」と激賞した。
儀一郎は木地を養父伊藤政治から習ったが、鳴子の高橋利四郎に手直しを受け、小物の技術は優秀であった。木地業は大正末まで小安で続け、大正十三年には鈴木軍治氏によってこけし作者として報告されたが、その後転業して滝ノ原発電所の水槽番を務めていた。こけしは蒐集家に請われて余暇に作る程度であり、また病気がちでもあったから数は稀少、武井氏による激賞以後はさらに入手困難で蒐集家渇望のこけしとなった。昭和八年五十二歳で亡くなった。地元の人も儀一郎のこけしを大切にしているが、石井眞之助の探求によると皆瀬村の村長、郵便局長、発電所長、病院長の四名のところにしか地元には残っていないという。石井眞之助の忠告にも拘わらず、深沢要は儀一郎を手に入れんと小安を訪ねる。それが、「こけしの微笑」の「小安紀行」である。儀一郎が住んだ水槽番の小屋にも訪れ、未亡人とも会ってきている。このとき小安では子供が遊んで黒くなった三寸くらいの儀一郎と、佐藤留治という古い作者の同じように黒くなったこけしとを手に入れた。それなりに収穫のある小安行きであった。
儀一郎を持っていない蒐集家は、一生のうちに一本でも自分のものにしてみたいと渇望し、手に入れた蒐集家はそれを掌中の珠として愛蔵した。橘文策は満州新京への赴任に際し、殆どのこけしを土蔵に入れて置いて行ったが、儀一郎のこけし一本は持参、敗戦で着の身着のままで帰国するときもその儀一郎は必死で持ち帰った。
戦後、東京こけし友の会が「こけし手帖」を刊行、第七号は「伊藤儀一郎特集」であったが、その座談会では誰と誰が今儀一郎を持っている、誰と誰のものは戦災で焼けたという儀一郎こけしの戸籍調査のようなことから話が始まっている。この座談会は昭和三十年であるが、戦前のほぼ全ての蒐集家に一種の「儀一郎トラウマ」のようなものがあって、それがこの時期までは残っていた。
儀一郎のこけしは、形状は木地山系で肩の部分に「波挽き」(ビリカンナ、ウテラカシ)の模様を入れる。この「波挽き」は鳴子の利四郎から学んだものであろう。胴には山茶花、芙蓉、桔梗、燕子花、百合などの花を極めて写実的に描く。木地の完璧な仕上げと「波挽き」の手技、胴の精緻な花模様が、武井武雄を絶賛させ、多くの蒐集家を惹きつけたのであろう。
ところが昭和十四年の「こけし」誌第四号に高久田脩司による次のような衝撃的な報告が載った。
「あの傑れた儀一郎こけしの胴模様ー武井氏は『模様といふより最早絵である』と云って居られるがーは実は明治画壇における南画の第一流の大家であり、帝国技芸員でもあった野口小蘋女史の絵に據ったものが多いと云ば成程と首肯される方も少なからうと思ふ。」という書き出しで、小安における調査結果を詳述してある。
それによると、「儀一郎が嫂に譲って貰って使用してゐるのであって、明治三十一年三月二日印刷博文館発行野口勝一編『畫法自在』(日用百科全書中第二十七編)中所載の小蘋女史筆の絵である」とあり、その本を調べたところ「上に紙を当てて鉛筆で写したものと見え、強く上から押した痕が歴然と残って居った」。また村長、病院長、郵便局長所蔵のこけしを確認したところ、村長の原画は確認できなかったが、「後者二本は(小蘋の原画と)そっくり其儘の芙蓉と菊であった。」と、徹底した調査ぶりである。
高久田脩司は粉本による胴模様であっても儀一郎の眼識と手法を経たものであり、儀一郎のこけしの評価が落ちることはないであろうという判断を付して、儀一郎愛蔵者への配慮も示していた。
しかし、この高久田の報告の後で出版された「古計志加々美」の儀一郎評は手厳しい。「正確に言へば彼のこけしは独自の形式を備ヘで居て、之を以て鳴子系のこけしとは称し難く、さりとて木地山風でもなく、全く特殊なこけしと言ふべきである。木地としては挽成及び仕上げの美事さが賞美されるが、野口小蘋の花弁絵を敷きうつしゝて習ったと言ふその胴模様は、それに払った努力にも拘らず、幼稚極るものであって、或は彼が企画したかも知れないと思はれる芸術的効果とは反対の結果をあらはし、正に狇猴にして冠するものと言ふべきである。勿論こけしとして相応はしき素朴さと簡素さからは遥かに遠ざかって居て、こけしとしては推賞すべきものではない。」として徹底的な酷評を加えた。
武井武雄はこれに対して「日本一として目の色を変える程のものではないにしても、これはまたこれで決して過小に評価すべきものではないと思います」(こけし通信)と釈明した。池袋にあった武井さんの蛍の塔が、戦災で灰塵に帰したことが、彼がこけし界から離れていった直接の原因であったとしても、加々美などで加えられた武井評価に対する間接的にではあるが容赦のない批判なども、こけし界に嫌気がさした一因であったろう。
戦後になると、やはりこれは本来のこけしとは違う、武井武雄は装飾芸術と云ったが、むしろ創作こけしの前駆的なものであったという解釈が主流になった。それと同時に伝統こけしとしてはほとんど話題に上らぬこけしとなった。
それでも「儀一郎トラウマ」はやはり幾分残っていて、あの鹿間時夫氏ですら「キミィ、そんなに悪く言うようなもんじゃありませんよ。」と言って、「こけし辞典」の伊藤儀一郎の項目はかなり熱を入れて執筆していた。少なくとも彼には「儀一郎を巡る蒐集家の業」と云ったものに強い共感があった。
石井眞之助蒐集品 (左:芙蓉、右山茶花)
右尺は昭和の初めに小椋久四郎より手に入れたもの
既に飴色になっていたと云うから製作時期は大正期であろう。
左は尺三寸、手紙で注文し昭和七年正月に
三年越しでようやく届いたものという。
「古計志加々美」の「狇猴にして冠するもの」という評は実は大変気になる表現である。この出典は史記の項羽本紀にある「楚人狇猴而冠耳」((楚人狇猴にして冠するのみ)からきている。楚人の項羽を揶揄した言葉で、「楚から来た猿(=項羽)が冠をかぶって喜んでいるだけだ」という意味だ。それなら儀一郎あるいはこけしが猿で、冠は日本画だというのだろうか。少なくともこの「古計志加々美」の解説執筆者には、こけしが小蘋の日本画に比べて野卑で下等だという気持ちがあるように見える。こけし風情が帝国技芸員の日本画粉本をまねるなんて笑止千万という気持ちなのだろう。おそらく、この解説者はこけしの真の愛好家ではなかろう。「古計志加々美」が、実によくできた本でありながら、愛好家の視点に欠けて魅力に乏しいのは、こういうところにあるのかも知れない。
因みにこの言葉で項羽を謗った遊説家は激怒した項羽に釜ゆでの刑に処せられた。