鳴子の工人(2)
昭和十四年頃の写真。娘さんの綱取で二人挽きで木地を挽く伊藤松三郎。娘さんはこの後東京に出たが、すぐに亡くなってしまった。
松三郎長男松一は、当時日立の鉱山学校在学中であったが妹の死を契機に鳴子に呼び戻され、木地の修業を始めることになる。
昭和四十七年。
伊藤松三郎は明治二十七年八月十七日中新田の生まれ。三歳のとき父と死別、高橋金太郎に引き取られて鳴子で育った。十一歳頃より金太郎の長男万五郎について木地挽きを学んだ。十五歳ころより各地を渡って木地を挽き、岩手県鉛、一ノ関、東京、青根、花巻、浅虫、定山渓などで働いた。昭和十二年鳴子に帰り、遊佐民之助のロクロを譲り受けて木地業を開業、昭和十三年頃からのこけしが残っている。
戦後昭和二十年より、鳴子の奥の沼井の開墾を初め、農業の傍らこけしを作り続けた。
戦前のこけしは当時の鳴子風のものであったが、昭和三十八年ころから、金太郎が昔作った型を思い出して製作した古型は、可憐な童女の面影をもっていて、古鳴子の風韻をよく伝えていた。 上の写真は昭和三十九年作(辞典掲載のもの)。
沼井の風影 (昭和四十四年七月)
鳴子にて松三郎長男松一から話を聞いたことがある。沼井では狸がよく出るという。狸は本当に狸寝入りをするという話だった。しかし狸寝入りは寝たまねをするわけではなく、気の小さい狸が腰を抜かすのだそうだ。狸のそばへそっと近寄って手をたたいたりして大きな音を出すと、狸はコテッとひっくり返るらしい。驚愕で精神に異常をきたす前に自己防御のために先に気絶するのだろうか。松一は面白そうにそんな話をした。
弁護士の橋元四郎平さんとこの話に興じながら、酔談のうちに猿蓑の連句に倣ひ
酔ふほどに たぬきをおどす 篠の弓
沼井の宵に 誘ふ まいら戸