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大湯風影


 鳴子の風影

古い写真:湯元の坂

小松五平


戦前の大湯温泉
秋田県鹿角郡大湯温泉は、約八百年の歴史を持つ古い温泉である。南部領内五湯の一つ「鹿角の名湯」として知られた。当初の四ヶ所の温泉が湧出する共同浴場は温泉小屋となり、やがて湯治宿が並ぶ温泉地へと発展した。江戸時代後期になると、秋田と青森を結ぶ来満街道を越えて行き来する人たちや十和田参りの人たちが立ち寄るようになり賑わった。 南部藩の保養地でもあった。
近くに国指定特別史跡「大湯環状列石」があることでも知られる。

昭和四十三年夏、大湯の小松五平
小松五平は明治二十四年鳴子に生まれ、高橋万五郎について木地を学んだ後、東北各地、特に南部地方を転々として木地を挽き続け、大正十年より大湯温泉に落ち着いた。この地でこけしも多く作り、昭和初年刊行の「こけし這子の話」で既に作者として紹介されたから、蒐集家にはもっとも古くから知られたこけし工人だった。旧姓は上埜、小松留三郎妹アサと結婚して入婿となった。師匠の高橋万五郎は大沼又五郎に木地を学んだ金太郎の長男、家は湯元の坂の上り口、大沼岩太郎の向かいにあった。万五郎の弟子には伊藤松三郎、小松留三郎、小松五平、遊佐平治郎、遊佐君男、深見喜三、高橋民三郎、岸正男などがいた。
小松五平は明治四十一年に鳴子を離れ、万五郎一家とともに岩手県鉛の藤友旅館、花巻で木地業に従事、さらに職人として台、盛岡、上ノ山、仙台などを渡り歩いた。台温泉では高橋寅蔵の下で働いた。大正十年に大湯ホテルの富田氏に招かれて大湯に移り住んだ。当時の大湯ではこけしはあまり売れず、十和田湖畔に卸したこともあったという。

昭和四十三年に私が訪れたときは、元気に木地を挽き描彩も続けていたが、その年の末に中風で倒れこけし製作を中止、昭和四十七年に八十二歳で亡くなった。この時の五平はすでに耳が遠く、話はなかなか困難であったが、後の伊藤松三郎からの聞き書きと合わせて、明治大正の鳴子工人の花巻周辺での活動を知る上で役に立ち、「こけし辞典」執筆の資料の一つとなった。

右のこけしは五平大正期の六寸二分、石井眞之助旧蔵品。頭や肩の形態、最初の鉋溝までの赤ろくろ線の幅など、古鳴子の姿をよく残している。台で高橋寅蔵の下で働いたので、面描・胴模様にも寅蔵の影響が強く残る。「こけし這子の話」写真掲載のこけしに比べても肩と胴の鋭角的な纏まりなどさらに古い形態を残しているように見える。現存する五平の最も古い時代の作例である。
大湯に移ってからは十和田湖休屋で土産物用のこけし製作を制作していた高瀬善治と共通する胴中央のややくびれた型も作った。休屋に卸すため、休屋の共通の型を意識したためかも知れない。休屋型を意識する以前のこの大正期のこけしを見ると、五平は確実に古い鳴子の手法を伝承し、万五郎の娘婿高橋寅蔵や岸正男のこけしとも一脈通じる万五郎集団独特の作風を継承していたことがわかる。



高橋武蔵 大沼新兵衛 伊藤松三郎

産地風影

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