鳴子風影
鳴子湯元の坂道
戦前の湯元の坂
右手手前より、旅館旅館たかのや、ますや、左手は滝の湯。
ゆさや。ゆさや、ますやは今でもあるが、たかのやはすでに無く、その跡地は現在駐車場になっている。
下の地図の上方より下方を見た写真。
右上は横屋の階上から湯元の坂を見下ろしたところ。
左上の地図は沢口悟一氏が記憶で作成したものによる。
明治二十五年頃は湯元の坂の両側に多くの木地屋がいた。
高野幸八、大沼甚三郎、岩蔵、高橋直蔵、大沼岩太郎、大沼勝蔵、大沼源太郎、高橋金太郎らはこけしの作者でもあった。
この地図で黄色は木地屋、緑は旅館。
昭和に入って戦前の鳴子の旅館配置(下図)は沢口悟一の図とは若干の異同がある。
戦前の鳴子湯元
戦前の源蔵湯
江戸初期より鳴子周辺には漆器の塗下挽きとして木地業に従事するもの多く、
温泉街にも「木地引アリ、漆器ヲヒサグ店多シ」と「浴陸奥温泉器」(文化十年)に記録されている。
土産物の玩具等小物挽きは小田原から湯治療養に来ていた木地師によって
天保年間に伝わったと言われる。この木地師が逗留していたのが上の写真の源蔵湯で、
木地を学んだのは、源蔵湯の隠居家督大沼又五郎だと言われる。
又五郎の弟子となったのが、大沼岩太郎、大沼金太郎、大沼利右衛門、高野幸八等である。
鳴子町資料では高橋直蔵も又五郎から木地を学んだとあるから、鳴子の作者は全て
大沼又五郎の流れを汲んでいると言ってもよい。
鳴子温泉神社の石段の上から湯元を見る。
改装される前の「瀧ノ湯」(昭和四十七年) 戦後の鳴子、下から見た湯元の坂。正面は旅館よこや。 ホームページへ